「アレクサンドル・メーンシコフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m r2.7.2+) (ロボットによる 変更: es:Aleksandr Danílovich Ménshikov
編集の要約なし
1行目:
[[Image:Portrait of Alexander Danilovich Menshikov1.jpg|200px|thumb|アレクサンドル・メーンシコフ]]
'''アレクサンドル・ダニロヴィチ・メーンシコフ ''' ({{Lang-ru-short|'''Алекса́ндр Дани́лович Ме́ншиков'''}}, {{Lang-en-short}}'''Aleksandr Danilovich Menshikov''', [[1673年]][[11月16日]] - [[1729年]][[11月23日]]) は、[[ロシア帝国]]の[[軍人]]・[[政治家]]。[[大元帥]]。[[ピョートル1世]]に取り立てられ台頭、[[エカチェリーナ1世]]の治世で権勢を誇った
 
== 生涯 ==
貧しい馬丁の子として生まれ、[[モスクワ]]で饅頭売りをしていたといわれる。首都近郊の外国人居留地に頻繁に出入りしていた若き[[ピョートル1世]]と出会い、趣味の軍事教練に一兵士として参加し寵臣となる。
メーンシコフは、元[[愛人]]だったエカチェリーナ・アレクセーエヴナがピョートル1世に気に入られ皇后となると、たびたび彼女に助けられた。
 
ピョートル1世の元で[[1697年]]から[[1698年]]の西欧使節団に同行し[[1700年]]から始まった[[大北方戦争]]に出陣、[[バルト海]]沿岸地域の占領を[[ボリス・シェレメーテフ]]と共に任され、[[1702年]]に[[スウェーデン]]領ノーテボリ([[シュリッセリブルク]])を落とした。この時期にシェレメーテフが召使いにしていた[[リヴォニア]]出身の女性マルタを召使いとして引き取り(愛人ともされる)、マルタを気に入ったピョートル1世が彼女を引き取った後もマルタとの繋がりを保ち、後にエカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名して皇后となったマルタに助けられたりしている<ref>土肥、P45 - P46、阿部、P64 - P65、河島、P22 - P38。</ref>。
メーンシコフは、ピョートル1世の元で[[大北方戦争]]に出陣した。[[1708年]]11月2日に[[コサック]]自治国の首都である[[バトゥールィン]]をメーンシコフが率いるロシア軍によって包囲し、11月13日に守備隊の裏切りによってバトゥールィンに入り、数に勝るロシア軍はコサックを撃破し、バトゥールィンを陥落させた。この時メーンシコフのロシア軍は男女老若を問わず住民全員を殺害し、[[スウェーデン]]と同盟したコサックの咎めるため、殺害された女子の遺体を筏に張り付けて[[セイム川]]で流した。この出来事は研究史では、バトゥールィン悲劇と呼ばれている。
 
[[1706年]]にスウェーデン王[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]と戦っていたロシアの同盟者である[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]救援のためポーランド軍と合流したが、アウグスト2世がカール12世と[[アルトランシュテット条約]]を結んだため救援に失敗、ピョートル1世の元へ戻った。
[[1725年]]に入り大帝の死期が近くと、新興勢力の筆頭だったメーンシコフは皇后エカチェリーナを推して有力貴族たちと対立した。同年1月28日に大帝が崩御すると、皇后は[[エカチェリーナ1世]]として即位し、メーンシコフが牛耳る[[最高枢密院]]が実権を握った。[[1727年]]に彼女が死去すると12歳の[[ピョートル2世]]を即位させ、メーンシコフの娘マリヤと婚約させた。しかし、有力貴族の反撃によって失脚し娘の婚約は取り消され、それまで築いた莫大な財産を没収され家族そろって僻地に追放された。そのときの疲労から健康を害し追放先で病死した。
 
[[1707年]]にカンシコフは、ピョート112がロシアに遠征、[[ウクライナ・コサック]]元で[[大北方戦争ヘーチマン]]・[[イヴァン・マゼーパ]]がスウェーデン出陣し寝返っため、[[1708年]][[11月2日]][[ピョートル1世の命令でウクライナ・コサック]]自治国の首都である[[バトゥールィン]]をメーンシコフが率いるロシア軍によって包囲し、[[11月13日]]に守備隊の裏切りによってバトゥールィンに入り、数に勝るロシア軍はコサックを撃破、バトゥールィンを陥落させた。この時メーンシコフのロシア軍は男女老若を問わず住民全員を殺害し、[[スウェーデン]]と同盟したコサック咎めるため、殺害された女子の遺体を筏に張り付けて[[セイム川]]で流した。この出来事は研究史ではバトゥールィン悲劇と呼ばれている。
 
[[1709年]]にウクライナに南下したスウェーデン軍をピョートル1世と共に迎え撃ち勝利([[ポルタヴァの戦い]])、[[1712年]]から[[デンマーク=ノルウェー]]王[[フレデリク4世 (デンマーク王)|フレデリク4世]]・ザクセン軍と共にスウェーデン領ドイツ([[ポメラニア]])を攻撃して[[シュチェチン|シュテッティン]]を落とし、[[シュトラールズント]]もデンマーク軍が包囲・陥落させたたため([[シュトラールズント包囲戦]])、ポメラニアを平定して大陸のスウェーデン領の殆どを奪い取った。一方で公金横領など汚職の噂が絶えず、[[1724年]]の人口調査で逃亡農民を所領に匿ったことが発覚、エカチェリーナの取り成しで罷免・謹慎処分で済んだ<ref>土肥、P79 - P85、P153 - P154、阿部、P86 - P88、P95 - P104、P135 - P139、河島、P84 - P91。</ref>。
 
[[1725年]]に入りピョートル1世の死期が近くと、新興勢力の筆頭だったメーンシコフはエカチェリーナを推して有力貴族達と対立した。[[1月28日]]にピョートル1世が崩御するとメーンシコフは新興貴族と結託、近衛連隊を動かしエカチェリーナを擁立して[[クーデター]]を起こし、[[エカチェリーナ1世]]として即位させ自身が所属する[[最高枢密院]]を牛耳り実権を握った。エカチェリーナ1世の治世では政敵排除を行いながら次の政権にも留まることを画策、ピョートル1世の同名の孫[[ピョートル2世|ピョートル]]と接触して保守派との連携を狙った。
 
2年後の[[1727年]]に彼女が死去すると12歳のピョートル2世を即位させ、娘マリヤと婚約させた。しかし、[[ヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーコフ|ヴァシーリー・ドルゴルーコフ]]を始めとする有力貴族の反撃によって失脚し娘の婚約は取り消され、それまで築いた莫大な財産を没収され、家族そろって僻地に追放された。その時の疲労から健康を害し追放先で病死した<ref>土肥、P264 - P266、阿部、P246 - P248、河島、P119 - P138、P200 - P206、P221 - P238。</ref>。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[土肥恒之]]『ピョートル大帝とその時代 サンクト・ペテルブルグ誕生』[[中公新書]]、1992年。
* [[阿部重雄]]『タチーシチェフ研究 {{smaller|18世紀ロシア一官僚=知識人の生涯と業績}}』[[刀水書房]]、1996年。
* [[河島みどり]]『ピョートル大帝の妃 {{smaller|洗濯女から女帝エカチェリーナ一世へ}}』[[草思社]]、2002年。
 
==外部リンク==