「アドルフ・ドゥエイ」の版間の差分

編集の要約なし
(Cat+3)
[[画像:Adolph-Douai.jpg|thumb|right|200px|アドルフ・ドゥエイ]]
 
'''アドルフ・ドゥエイ'''(Carl Adolph Douai、[[1819年]][[2月22日]] - [[1888年]][[1月21日]])は、著名なドイツ系テキサス人<ref>http://www.tshaonline.org/handbook/online/articles/fdo30 Texas State Histroical Associationのサイト内のドゥエイに関する記事。</ref>で、ジャーナリスト、著述家、新聞編集者で、社会改革家でもあった。ドイツでは、ザクセン・ゴ―タ・アルテンブルクの[[労働運動]]の指導者で、アメリカに渡ってからは、[[奴隷制度]]廃止論者としても活躍。これに関する資料は、現在[[テキサス大学]]に収蔵されている。彼は[[教育者]]としては、アメリカで最初に[[幼稚園]]を作った一人でもある。
 
ドゥエイは、[[1848年革命]]に参加し、彼の新聞にも革命派への支持をたびたび記事にしている。
彼は、教育一家の出で、教師だったカール・エドゥアルト・デュエイ(1793年 - ?)とエレオノーラ・ドゥエイ(1797年 - ?)の間の子どもである。
 
ドゥエイは、1843年9月25日、ザクセン・アルテンベルク公国の[[イェナ]]近郊のモデルヴィッツでボイスト男爵夫人アグネス(1819年2月18日 - 1898年12月13日)と結婚した。彼女は、ボイスト男爵マクシミリアン(1805年 - 1832年)とハッケ男爵夫人シャルロッテ(1788年 - 1861年)の間に生まれた娘であった。ドゥエイ夫妻には、10人の子どもがあった、2人の男子と8人の女子である。
 
== 生涯 ==
===ドイツの革命===
ドゥエイは、4歳で既に父親から読み書き計算を教えられた。彼は[[アルテンブルク]]のギムナジウムに学び、その後奨学金を得て、[[ライプツィヒ大学]]で、神学、哲学、と歴史を学んだ。1841年、彼は数年にわたる遊学の旅に出、[[バルト海]]を渡って、[[エストニア]]に赴き、そこで私講師として働いた。この当時、彼は[[ドルパト大学]]でヘーゲル哲学に関する論文で、文献学の博士の学位を取得している。彼はもっぱら独学で学んできたが、かなり知識は偏りがあり、世界文学や自然科学、博物学についてはほとんど知識は皆無で、[[ゲーテ]]の『[[ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]』の中の「教育州」についてをよく読んでいたくらいにとどまった。教育思想家では、[[フリードリッヒ・ディースターヴェーク]]に傾倒していた。
 
1846年になって初めて、彼は故郷のアルテンブルクに戻ってくる。この間に彼は結婚し、結婚生活も既に3年を経過していた。故郷で彼は自ら私立学校を新しいスタイルで設立、それを指導して成功を収めた。これは古典的な教育内容から離れ、自然科学や近代語の教育を優先しようとするものであった。
ドゥエイは、新聞でこれまで通り奴隷制に対する反対キャンペーンを継続し、ついに1855年2月9日の版でテキサス州の西部に自由な独自の国家の設立を提案した。同年、彼の新聞の奴隷制反対の主張に反感を持つ暴徒たちの手によって新聞社の事務所が徹底的に破壊された。その後、1956年には収入がさらに激減し、彼は自分の持ち分をグスタフ・シュライヒャー(1823年 - 1879年)に売却してテキサス州を去ることになった。
 
===ボストンの知識人たちの中で===
ドゥエイは北部の[[マサチューセッツ州]]の[[ボストン]]に移り、そこでまた学校を設立した。それは1859年のフレーベルのモデルにならったもので、おそらくアメリカ合衆国で最初の誰にでも開かれた幼稚園とされている。これは彼により設立された労働組合の支援によるものである。但し、[[マルガレーテ・シュルツ]]([[:de:Margarethe Schurz]])が、1856年に彼女の自宅で最初の私立の幼稚園を開設している。ドゥエイは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に入党し、ドイツ系入植者を共和党に勧誘するため全国を旅していた。
ドゥエイは北部の[[マサチューセッツ州]]の[[ボストン]]に移り、ここで「幸せな4年間」を過ごす。現地の進歩主義協会やドイツ系移民の体操協会にも参加し、ニューイングランドの社会にも溶け込もうとした。この時期、[[シラー]]の生誕100年祭を催したり、1859年5月6日亡くなった[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]の追悼祭を催したりしている。
 
また、評論家の[[チャールズ・A・ダナ]]と[[ジョージ・リプレー]]によるアメリカン・咲くクロペディアの「ドイツ語文法」という大項目の編集を手伝ったり、短期間ではあるが、[[パーキンス盲学校]]でも教鞭をとった。また懸賞小説への応募で、"Fata Margana"
(蜃気楼)というテキサスにやってきたドイツ系移民の物語を書き、1858年セントルイスで出版されたが、不評に終わった。
 
ドゥエイ北部の[[マサチューセッツ州]]の[[ボストン]]に移り、そこでまた学校を設立した。それは1859年のフレーベルのモデルにならったもので、おそらくアメリカ合衆国で最初の誰にでも開かれた[[幼稚園]]とされている。これは彼により設立された労働組合の支援によるものである。但し、[[マルガレーテ・シュルツ]]([[:de:Margarethe Schurz]])が、1856年に彼女の自宅で最初の私立の幼稚園を開設している。彼女は、1859年に[[エリザベス・ピーボディ]]と知り合い、彼女にフレーベルの教育思想と幼稚園について指導している。一方、ドゥエイはこの時期、ドイツ系の教員養成大学の設立計画やその他の教育改革に手を染めていて、幼稚園にはあまり時間を割いていなかった<ref>石川道夫「知られざるアドルフ・ドゥエイ」日本ペスタロッチー・フレーベル学会「人間教育の探究」第21号 2009年 p.1-22</ref>。ドゥエイは[[共和党 (アメリカ)|共和党]]に入党し、ドイツ系入植者を共和党に勧誘するため全国を旅していた。
 
 
===ニューヨークへ===
 
しかしながら、彼が公言していた無神論のために反対派反発を買い、1860年にはこの町も再び去ることになる。
* Paul Mitzenheim: ''Adolf Douai - Vermittler Fröbelscher Ideen nach den USA und Japan'', in: „Friedrich Fröbel in Japan und Deutschland“, Hrsg.: Helmut Heiland und Karl Neumann, Weinheim 1998
 
==脚注==
<references />
== 外部リンク ==
*{{PND|116190566}}