「コジマ・KE007」の版間の差分

(→‎外部リンク: 元コジマ関係者のサイト)
 
=== 修復作業 ===
コジマの挑戦はクラッシュの時点で終わったかと思われたが、小嶋は2日後の決勝までにマシンを修復することを決断。前線基地として間借りしていた[[近藤レーシングガレージ]]に運び込み、京都懸命修復作業に取り掛かった。クラッシュのダメージはモノコックに及んでおり、使える分を除けば修復というよりもほとんど新造に近った。設計図面を京都の本部に置いてきたため、解良の製作ノートをもとに材料を切寄せ出し現物合わせで車体を製作した<ref>「日本レフメカニックス史断章 解良喜久雄(心に懸命編)」、p106。</ref>。クラッシュ修復作業に取り掛原因は分からなかったが、サスペンションが壊れた可能性があるためアームを補強し、チタンボルトを10mmから12mmに変更することで対処した<ref name="CG9806">熊倉「帰ってきた007 いま甦るコジマF1 I」、p167-168。</ref>
 
クラッシュのダメージはモノコックに及んでおり、後ろ半分と右側部を残して新たに造り直さなければならなかった。近隣の「大御神レース村」と呼ばれるレーシングガレージ群から見物に訪れていたメカニックたちもその作業に協力した。助っ人の中には猪瀬良一([[ノバエンジニアリング]]代表)や佐藤正幸([[セルモ]]代表)らがいた<ref name="CG9806"/>。<!--出典不明により掲載不可能→(この点に関して、当時、各種モータースポーツ誌にその記載は見られるが、当時のコジマエンジニアリングのメカニックであった人物は、修復の場の提供を受けたが、修復作業自体はコジマの関係者だけであったと話している)-->長谷見は「みんな頼まれたわけでもないのに無給で働いてくれるんです。もう感謝の気持ちで一杯でした」と語っている<ref name="AS1212p30">黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第5回」『オートスポーツ』2002年12月12日号、p30。</ref>。翌11月23日深夜にモノコックの組み立てが始まり、昼夜を問わず作業を続け、開始から40時間後、決勝当日24日の午前7時に修復作業は完了した<ref name="AS1212p30"/>。
 
=== レースとその後 ===
午前8時30分からのフリー走行にKE007が出走すると、観客席からは拍手が起こった。しかし、修復過程で急造のためモノコックのリベット打ちのずれを修正する余裕がなく、正しい[[ボデー・アライメント|アライメント]]をとることができなかった<ref name="MGp18"/>。モノコックがねじれていたため直線でも右に曲がってスピンしそうになるような状態で、ステアリング・ギアボックスもロックして操縦が困難だった<ref name="AS1212p31">黒井「F1ドライバーたちを震撼させた日本人 長谷見昌弘伝 第5回」『オートスポーツ』2002年12月12日号、p31。</ref>。また、解良は長谷見に黙っていたが、わずかにガソリン漏れも起こしていた<ref name="CG9806"/>。決勝は大雨の中でのスタートとなったが、仮にドライコンディションであれば走行スピードも上がるため、出走をキャンセルすることも考えていたという<ref>大串「33年目にして解き明かされる コジマF1の真実」、p20。</ref>。
 
長谷見は10番グリッドからスタートし、オープニングラップを14位で通過。日本ダンロップの深溝[[レインタイヤ]]の性能もあり、6周目には再び10位に浮上した。しかし、雨が止むとタイヤのトレッドが剥離し始め、25周目にピットインして新品のレインタイヤに交換。33周目にはドライ用の[[スリックタイヤ]]に履き替え、最終的には優勝者のアンドレッティから7周遅れ、完走車の最後尾となる11位でチェッカーを受けた。長谷見はリタイアせず走り続けた理由を「無報酬にもかかわらず徹夜でクルマを修理してくれたみんなのためにも、完走だけはしたかった」と語っている<ref name="AS1212p31"/>。
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