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第2の都市
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[[画像:Brosen durres panview.jpg|thumb|200px|right|港の風景]]
[[画像:Durres Amphitheater.jpg|thumb|200px|right|ローマの古代遺跡]]
'''ドゥラス'''([[アルバニア語]]:{{Lang|sqi|'''Durrës'''}}、ドゥルスィ、イタリア語ドゥラッツォ)は、[[アルバニア]]第2の[[都市]]。[[ドゥラス州]]の[[州都]]、[[ドゥラス県]]の[[県都]]。
 
== 概要 ==
[[アドリア海]]に面するアルバニア屈指の港湾都市。[[イタリア]]、[[ギリシャ]]、[[モンテネグロ]]などとの取引が行われる。鉄道路線を通じて内陸とも結ばれており、工業製品などの集散地としての役割を果たしている。近隣の都市としては、約3036キロ東の[[ティラナ]](首都)、35キロ北東の[[クルヤ]]などが挙げられる。
 
== 歴史 ==
市は、[[紀元前627年]][[コリントス]]と[[ケルキラ]]出身の古代ギリシャ人によって'''エピダムノス'''(Epidamnos)として建設された<ref>Wilkes, J. J. The Illyrians, 1992,ISBN 0631198075,page 96,"From Bouthoe to Epidamnus, a Greek city, the ..."</ref>。周囲には岩でできた天然港があり、内陸は湿地で海側は高い崖であるという地理条件が有利であった。陸海両方から、敵が攻め落とすのが難しい都市となるからである。エピダムノスは政治的に進んだ社会となったことが知られ、古代の哲学者アリストテレスはその政治システムを讃え鼓舞していた。しかし、コリントスとケルキラがエピダムノスを巡って不和となり、紀元前431年に[[ペロポネソス戦争]]勃発に荷担した。
 
=== ローマとビザンティン ===
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=== 20世紀 ===
[[Image:Palace of king Zog durres.jpg|thumb|250px|ドゥラスにあるゾグー1世のかつての邸宅]]
ドゥラスは、1878年-1881年、1910年-1912年の二度、アルバニア国民自由運動の活発な都市であった。初代アルバニア首相[[イスマイル・チェマリ]]([[:en:Ismail Qemali]])は、1912年11月26日にアルバニア国旗を掲揚した。しかし、[[第一次バルカン戦争]]勃発の三日後に[[セルビア人]]勢力によってドゥラスは占領された。1913年3月7日、初代[[アルバニア公国|アルバニア公]][[ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート|ヴィルヘルム・ツー・ヴィート]]のもとで、ドゥラスは独立国家アルバニア最初の首都となった<ref>1913年の[[ロンドン条約]]により独立承認</ref>。1914年に、ここに一時政府が置かれた。
 
[[第一次世界大戦]]中の1915年、ドゥラスは[[イタリア王国]]に占領され、1916年から1918年までは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]に占領されていた。1918年10月、連合国によってドゥラスは陥落させられた。アルバニアの宗主権が復帰すると、1918年から1920年3月まで、ドゥラスは国の首都であった。イタリアからの投資で経済ブームを経験し、1927年にアルバニア王[[ゾグー1世]]によって港が現代的に再建されると主要海港に成長した。