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== 略歴 ==
信俊は、[[天文 (日本)|天文]]17年([[1548年]])、[[武川衆]]・青木信立の3男として生まれ、初め青木源七郎長俊と名乗った。武川衆は、[[甲斐源氏]]・[[武田氏]]の一族である[[甲斐一条氏|一条時信]]を祖とする辺境武士集団であり武田家家臣団に組み込まれていた。青木氏は当時、武川衆の頭領の立場にあった。[[元亀]]1年([[1570年]])1月、名門横手家を継いでいた実兄の横手信国が[[駿河国]]花沢城攻めで討死すると、長俊は[[武田晴信]](信玄)の命令で、後嗣が居なかった横手家の[[名跡]]を継いだ。併せて、晴信より[[偏諱]]を賜り名を信俊と改めた。元亀3年([[1572年]])、[[三方ヶ原の戦い]]に参戦し、[[山県昌景]]のもとで戦功を挙げた。[[天正]]3年([[1575年]])5月には、[[長篠の戦い]]に供奉。敗戦に終わるものの、[[武田勝頼]]の下で本陣を守り何度も敵兵を押し返す働きをした。天正8年([[1580年]])10月、[[上野国]]膳城素肌攻めの際に、同じく武川衆の柳沢信兼が軍令違反(軍列を無断で離れて敵城の門際まで前進してしまったことが原因)のため勝頼より切腹を命じられた。信兼の死後、勝頼は切腹を命じたことを行き過ぎであったと後悔するとともに柳沢家が途絶えることを惜しみ、この戦いで功績のあった信俊に恩賞として柳沢家の名跡が与えられ、同時に名を柳沢兵部丞信俊と改めた。
 
 
天正10年([[1582年]])、[[天目山の戦い]]において武田氏が滅亡した後は、他の武川衆一同とともに[[徳川家康]]に仕えた。同じ頃[[北条氏直]]が武川衆を味方にするため使者を送るも、信俊は米倉忠継、折井次昌等とともに使者を討ち取り家康に献上した他、北条側の小屋(砦)を攻め破った。天正10年(1582年)[[8月16日]]には 、家康より[[甲斐国]]柳沢郷に72貫800文の地を与えられ、同年12月には[[朱印状]]を得た。天正12年([[1584年]])、[[小牧・長久手の戦い|小牧の戦い]]の際には[[信濃国]]勝間砦を守り、終結後は[[尾張国]][[一宮城]]の守備を担当した。天正13年([[1585年]])、[[第一次上田合戦]]では、妻子を人質に出したうえで[[大久保忠世]]のもとで戦功を挙げ、感状を得た。天正17年([[1589年]])には、甲斐国[[甲府城]]番を務め同年、領地を加増された。
 
 
天正18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に供奉し同年8月、家康が関東に移封となると信俊は[[武蔵国]]鉢形領内に230石を与えられた。天正19年([[1591年]])、[[陸奥国]]岩手沢で起きた[[九戸政実の乱]](九戸一揆)鎮圧のため、大久保忠世に従い出陣した。天正20年([[1592年]])、[[文禄・慶長の役]]の際には、兵船を作るために伊豆山で木材の伐採を命じられた。その後、慶長5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]では[[徳川秀忠]]に従い[[大久保忠隣]]のもとで[[第二次上田合戦]]に加わった。慶長19年([[1614年]])[[11月30日]]、[[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]の最中に知行地で病死した。享年67。