「ノート:中学造士館」の版間の差分

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:Baldwinさん、ご意見ありがとうございます。本記事を新規作成した者です。さて、「名称論」「実態論」と名付けたのは別の執筆者さんです。また、山下さんの論文にある「本校」の意味については、ご指摘のとおり、下級生収容のために新規設立された「分校」に対するものであることに間違いはないと思います。▼ところで、Baldwinさんが二中・甲南と関わりが深いと指摘された芳さんと山田さんですが、ご両名とも甲鶴両校に勤務経験があります。また、山下さんは、鶴丸高校卒業生で、鶴丸高校教頭で定年退職された方です。従いまして“どこの学校と深い関係があるから件の記述になる”ということにはならないと考えております。▼それから、芳さんと山田さんは「造士館」という名称のみで、“極端な場合”“沿革的な拡張”を試みているとのご意見ですが、藩校も中学造士館も島津家が大きく関与した教育機関である点も考える必要があるでしょう。もちろん、江戸時代と明治維新後の教育機関は別物であって、継承性はないと考えておりますが、島津家が出資、創設(願も含めて)し、名称と教育機関を「復活」させたという面からは、必ずしも極端な沿革の拡張にはならないと思います。▼高等中学造士館から中学造士館への変遷については、山下さんが“正確に説明できている”というよりは、“詳細に論述できている”との表現が良いでしょう。“山下氏はその頃の「中学造士館」の実態から、この時点での隔たりは大きいと見ていて、二中の萌芽を(といっても、あまり後身校としての記述のようには読めませんが)県中学造士館の廃止で分校に移った時の校舎建築の予算成立あたりに見出されているようです。”とのことですが、これは読む側の受け取り方の違いもありましょうが、高等中学造士館は官立で本科=旧制高等学校課程=新制高等学校課程、予科・予科補充科=旧制中学校課程=新制高等学校課程で成り立っており、この予科・予科補充科の生徒が県中学造士館へ移籍したという観点からは、また異なる受け取り方になるかもしれません。▼二中一回卒業生については当方の記述誤りで、山下町の仮校舎から現在地へ移転した際に建築された木造校舎への最初の入学生が第一回卒業生です。▼最後の段落につきましては、Baldwinさんの一印象として拝読致しました。またいろいろご教示下さい。--[[利用者:飛鳥リョオ|飛鳥リョオ]] 2010年4月21日 (水) 03:07 (UTC)
 
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わたくしとIP氏([[利用者: 133.44.1.221]] )の編集について。
* 高等中学造士館が廃止に至った理由や内実の件。「「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く、貧困による退学者が多かった」という記述は、わたくしが複数の出典を示しながら掲載したものです。それに対してIP氏は文中で出典を示さず要約欄で「文部省年報に基づき明らかな間違い」であるとして削除します。削除と復元はこれまでにも数度あります。わたくしは「高等中学造士館の授業料は高くはなかった」といった趣旨がなされている出典があれば、併記するのが良いと考えているところです。
* 中学造士館の後裔についても同様で、複数の出典(甲南や前身の関係ではないものも含む)を文中で示しながら記述されたものを、「内容の検証可能性は結局確保できていない」「出典の一部については著しく信頼性を欠いたものも含む」といった理由で削除されることがあります。
第三者の皆様から幅広いご意見をお待ちしております。--[[利用者:飛鳥リョオ|飛鳥リョオ]]([[利用者‐会話:飛鳥リョオ|会話]]) 2012年9月19日 (水) 03:13 (UTC)
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