「中学造士館」の版間の差分

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:「本来ならば一中学校としてとうてい成り立ち得ない規模であるが、島津家や旧藩士勢力を背景としていることもあって、県当局もその育成のために格段の配慮をしているようである。高等中学時代の施設設備が残されていたことが有利な条件となっていたこともあろう。機会を得て高等学校として再興したいという意図も一部にはあった」
 
明治31年(1898年)<ref>本館は、明治30年1月に第4,5学年の2箇学年を収容して開学したので、4月にはこれらの学生がすべて第5学年に進級し、新たに第1学年を新入生として迎え、第1,5学年の2箇学年で明治30年度をのりきったとするのが『鹿児島県教育史』の描く学校像である。これは鶴丸高校や『中学造士館の研究 史料の紹介と考察』の著者山下らが明治30年に移籍させ、全学年が揃った状態で描く学校像とよい対比になっている。</ref>、鹿児島県第一尋常中学校(鹿児島県尋常中学校を改称)の2年生から4年生まで各学年40名を尋常中学造士館に転籍させ、生徒数の確保を図った。尋常中学造士館は現在の「[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]」、尋常中学校は現在の「かごしま県民交流センター」敷地にあり、「館馬場(やかたんばば)」(国道10号線)を隔てて並立していた。このような立地環境から、尋常中学造士館は「上の中学」、尋常中学校は「下の中学」と呼ばれ、喧嘩騒ぎも絶えなかった<ref>『鹿児島県教育史 下巻』</ref>。
 
明治32年(1899年)4月、「尋常」が外れ、鹿児島県中学造士館と改称。やがて政府に高等学校(旧制)増設の方針が明らかとなると、島津忠重が16万余円並びに中学造士館の建物・設備を政府へ寄付することで鹿児島県への高等学校設置を願い出て、さらに県議会も高等学校開設を建議した。その結果、明治34年(1901年)4月1日には第七高等学校造士館設置の告示がなされ、同年4月30日をもって鹿児島県中学造士館廃止となった。翌日の5月1日には鹿児島県第一中学校分校を山下町<ref>現在の中央公園、セラ602駐車場敷地</ref>に仮設、旧・中学造士館生の3年生以下を収容<ref>文部省の法令で、分校は3学年までと定められていた。</ref>した。分校設置の5年間、分校在籍生(旧・中学造士館生)は鹿児島県第一中学校卒業生となった。