「中学造士館」の版間の差分

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明治32年(1899年)4月、「尋常」が外れ、鹿児島県中学造士館と改称。やがて政府に高等学校(旧制)増設の方針が明らかとなると、島津忠重が16万余円並びに中学造士館の建物・設備を政府へ寄付することで鹿児島県への高等学校設置を願い出て、さらに県議会も高等学校開設を建議した。その結果、明治34年(1901年)4月1日には第七高等学校造士館設置の告示がなされ、同年4月30日をもって鹿児島県中学造士館廃止となった。翌日の5月1日には鹿児島県第一中学校分校を山下町<ref>現在の中央公園、セラ602駐車場敷地</ref>に仮設、旧・中学造士館生の3年生以下を収容<ref>文部省の法令で、分校は3学年までと定められていた。</ref>した。分校設置の5年間、分校在籍生(旧・中学造士館生)は鹿児島県第一中学校卒業生となった。
 
鹿児島城址裏、城山自然遊歩道の[[照国神社]]側入口より数百メートル左側地点には、「忠芬義芳」碑がある。これは旧・中学造士館と鹿児島中学校(第一中学校を改称したもの)両校の卒業生で[[日露戦争]]で戦死した者たちを慰霊するため、明治44年(1911年)5月27日に建てられた<ref>この事業は、実際には岩崎行親が独力で遂行した</ref>。碑文は当時第七高等学校造士館長で、元・尋常中学造士館長兼尋常中学校長であった岩崎行親によるもので、趣旨は以下のようである。
:「私が県立中学校長と県立中学造士館長を兼務していた際、日露戦争に両校の卒業生約百名が参戦した。海陸共に善戦したが、不幸にも20名の戦死者があった。さらに旧・鹿児島高等中学造士館関係の8名を合わせて28名が尊い命を散らした。よって、この碑を城山公園の閑静な眺望の場所に建て、忠芬義芳と題して碑の背側に戦死者の氏名を刻み、善行をたたえ、後進の発奮を促したい」
碑がある敷地の脇には、甲南高校3期卒業生で組織される「三甲会」の有志により、卒業五十周年記念事業の一つとして、国や鹿児島市の許可を得て説明板が設置されている。