「中学造士館」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
185行目:
|}
 
明治29年(1896年)9月3日、鹿児島高等中学造士館廃止が告示された。その理由として『鹿児島県史 第四巻』(1943年)及び『鹿児島県教育史 下巻』(1961年)は「都合により」、『鹿児島市史 第三巻』(1971年)は「島津忠重はこれを深く遺憾とし」と述べているが、『鹿児島学校と三州義塾 史料と政治的背景についての考察』<ref>前出。「鹿児島純心女子短期大学研究紀要第13号」、p110、1983年、芳即正</ref>には「当然運営経費の増加が見込まれ、島津家ではその負担に堪え得ないとして、明治29年度で高等中学造士館は廃止することになった」とある。廃止後、本科在籍生は[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]などに転校したが<ref>もちろん、本科2年は卒業するので、ここで本科としているのは本科1年から2年に進級する予定だった学生を示している。(高等学校3年への編入)</ref>、予科在籍生の転校先はなかった<ref>もちろん、予科1級は本科1年に、予科2級は予科1級に進級する予定であったので、これらの学生のことではない。(それぞれ高等学校2年、1年への編入)、ここで転校先がないとしているのは、予科3級から予科2級に進級する予定だった学生、ならびに予科補充から予科生として組み入れられた学生をいっている。これらの学生は少数ながらそれぞれを1箇学年として構成された。ちなみに予科補充そのものは明治28年7月に廃止されている。</ref>。廃止の2年前である明治27年(1894年)には、鹿児島県尋常中学校<ref>前出。のちの鹿児島県立第一鹿児島中学校→鹿児島県立鶴丸高等学校</ref>が設立されていたが、同校への吸収策は採られず、県庁管理による造士館復活となった。
 
===鹿児島県尋常中学造士館===