「中学造士館」の版間の差分

明治20年(1887年)12月20日、鹿児島県立中学造士館の(官立)鹿児島高等中学造士館への改編が告示、翌明治21年(1888年)4月、旧・県立中学造士館生徒を収容し開校。生徒の転籍先は、旧・県立中学造士館高等中学科卒業→本科、旧・県立中学造士館初等中学科在籍生→予科補充科。
 
館長は島津珍彦。課程は本科2年、予科3年、予科補充科2年の3科7年制。島津忠義らの寄付資金11万余円を元資金として、これが生み出す利息などによって運営された。予科及び予科補充科が尋常中学校に当たる教育機関となったが<ref>実際には、帝国大学入学までの修業年限が考慮され、旧制高等学校3年=本科2年、旧制高等学校2年=本科1年、旧制高等学校1年=予科1級のように取り扱われ、尋常中学校を卒業しても本科に入学することは稀であり、多くは予科に入れられた。</ref>、中学校卒業生が不足し、定員割れが慢性化していたほか、「官立」と冠していながら国庫による支出が皆無で授業料が高く、貧困による退学者が多かった<ref>『鹿児島県の中等教育の変遷 -中学造士館を中心に-』pp4-6、『創立百年』p24、『創立百周年記念誌 龍門』p59、『樟風遙か 甲南高校創立百周年 同窓会記念誌』p19</ref><ref>但し、上記の明治二十年造士館騒動で原口泉が考察しているように造士館生の実態は学費が問題となるような困窮した状況とは限らない</ref><ref>例えば、第五高等中学校 本科20円 予科15円 補充科15円に対して、鹿児島高等中学造士館 本科10円 予科6円 補充科4円、さらに造士館ではこの額面の半額徴収ということになっていたので、山田が指摘するように授業料はとても高かった。</ref>同館発足当時の生徒数を、前出『島津珍彦男建像記念誌』をもとに作成すると次表のとおりである。
 
; 明治21年時点の在籍生徒数
匿名利用者