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{{特殊文字|説明=[[JIS X 0213]]、[[拡張漢字|CJK統合漢字拡張A]]}}
'''郁久閭 呉提'''([[漢音]]:いくきゅうりょ ごてい、[[ピン音|{{JIS2004フォント|}}音]]:Yùjiŭlǘ:{{Unicode|Yùjiŭlǘ Wútí}}、? - [[444年]])は、[[柔然]]の[[可汗]]。[[大檀]]の子。可汗号は'''敕連可汗'''(ちょくれんかがん)といい、“神聖可汗”という意味である。
 
== 生涯 ==
[[神カ|神{{拡張漢字|A|䴥}}]]2年([[429年]])、大檀が病死すると、子の呉提が立って敕連可汗と号した。
 
{{拡張漢字|A|䴥}}4年([[431年]])6月、呉提は[[北魏]]に遣使を送って朝献した。以前、柔然の斥候騎兵20人余りが北魏に捕えられた。[[太武帝]]は彼らに衣服を賜って帰国させた。呉提ら君臣はこのことに恩義を感じたので北魏に朝貢をしたのである。太武帝は柔然の使者を手厚くもてなして帰国させた。
 
[[延和 (北魏)|延和]]3年([[434年]])2月、太武帝は呉提に[[西海公主]]を娶らせると、柔然は再び使者を派遣し、呉提の妹を太武帝の夫人として献上した。さらに呉提の妹は左昭儀に昇格された。呉提は兄の禿鹿傀と側近数百人を派遣して来朝させ、二千頭の馬を献上した。太武帝は非常に喜び、各々に手厚く下賜した。10月、呉提は再び北魏に朝貢した。
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太延2年([[436年]])、柔然は北魏との和親を絶って国境を侵犯した。
 
太延4年([[438年]])7月、太武帝の車駕は五原に赴き、柔然を征討した。楽平王の[[拓跋丕]]・河東公の[[賀多羅]]は15名の将軍を統率して東道に、永昌王の[[拓跋健]]・宜都王の[[穆寿]]は15名の将軍を統率して西道に、車駕は中道に出た。浚稽山に至ると、さらに中道を進む軍勢を二方面に分け、陳留王の[[拓跋崇]]は大沢から{{JIS2004フォント|涿}}邪山に、車駕は浚稽山から北方の天山に向かった。西方の雪山に登り、石碑に刻んで行軍の記録とした。北魏軍は柔然軍を発見せずに帰還した。この時、漠北では大旱魃が発生し、水や牧草がなくなって、多くの軍馬が死亡した。
 
太延5年([[439年]])6月、車駕は西方の[[沮渠牧ケン|沮渠牧{{JIS2004フォント|}}]]を討伐した。宜都王の穆寿は[[拓跋晃]]を補佐し、平城に駐留して防衛の任務に就いた。長楽王の{{JIS2004フォント|[[嵇敬]]}}・建寧王の拓跋崇の兵2万は漠南に駐留して柔然に備えた。9月、呉提は沮渠牧{{JIS2004フォント|}}の救援に応じて北魏に侵入した。穆寿は全く防備を固めておらず、柔然軍が七介山に来ると、京邑は恐慌状態となり、城内の人々は争って中城に逃げ込んだ。[[司空]]の[[長孫道生]]は吐頽山で柔然軍を迎撃した。呉提は北魏に侵攻すると、兄の乞列帰を後方に配置して北鎮の諸軍と対峙させた。{{JIS2004フォント|}}敬と拓跋崇らは陰山の北で乞列帰を破り、乞列帰を捕らえた。さらにその伯父の他吾無鹿胡と将帥500人を捕らえ、一万余りの首級を斬った。呉提は乞列帰らの敗北を聞いて逃走した。長孫道生が呉提を追撃したが、漠南に至って帰還した。10月、呉提は[[南朝 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]]に遣使を送って方物を献じた。
 
[[太平真君]]2年([[441年]])3月、北魏は郁久閭乞列帰を朔方王に封じた。
 
太平真君3年([[442年]])、呉提は伊吾王の[[唐契]]を攻撃し、唐契は[[高昌]]に奔走し、その地を奪おうとした。柔然部帥の阿若は騎馬を率いて高昌[[太守]]の{{JIS2004フォント|[[闞爽]]}}を救い、唐契を殺した。9月、[[沮渠無諱]]が高昌を奪取したので、{{JIS2004フォント|}}爽は柔然に逃げた。10月、柔然は宋に遣使を送って朝貢した。
 
太平真君4年([[443年]])、太武帝の車駕は漠南に赴き、軍勢を四方面に分けた。楽安王の[[拓跋範]]・建寧王の拓跋崇は各々15人の将軍を率いて東道に、楽平王の拓跋丕は15人の将軍を率いて西道に、車駕は中道に出で、中山王の[[拓跋辰]]は15人の将軍を率いて中軍の後に続いた。車駕は鹿渾谷に至って、柔然軍と遭遇した。呉提が逃走したので、北魏軍は追撃して{{JIS2004フォント|}}根河に至り、柔然軍を撃破した。車駕は石水に至って帰還した。
 
太平真君5年([[444年]])、太武帝は再び漠南に赴き、呉提を襲撃しようとしたが、呉提が遠方に逃れたので取り止めた。この年、呉提は亡くなり、子の[[吐賀真]]が立ち、処可汗と号す。