「モーリス・ラヴェル」の版間の差分

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音楽好きの父の影響で、7歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。両親はラヴェルが音楽の道へ進むことを激励し、[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]へ送り出した。音楽院に在籍した14年の間、[[ガブリエル・フォーレ]]やエミール・ペサールらの下で学んだラヴェルは、多くの若く革新的な芸術家と行動を共にし、影響と薫陶を受ける<ref>1900年頃には、ラヴェルらを中心とした音楽家や詩人たちによる芸術グループ、「[[アパッシュ (芸術サークル)|アパッシュ]]」が結成された。</ref>。
 
[[1898年]]3月5日の[[国民音楽協会]]第266回演奏会において作曲家として公式デビューを果たした<ref>[[マルト・ドロン]]と[[リカルド・ビニェス]]のピアノにより『耳で聴く風景』が演奏された。</ref>ラヴェルは、[[1900年]]から5回にわたって、有名な[[ローマ賞|ローマ大賞]]を勝ち取ろうと試みる。2回目の挑戦となった[[1901年]]にはカンタータ『ミルラ』で3位に入賞したものの、大賞は獲得できなかった(この時の大賞は[[アンドレ・カプレ]]、2位は[[ガブリエル・デュポン]])。[[1902年]]、[[1903年]]は本選において入賞を逃し(1902年の大賞は[[エメ・キュンク]]、1903年は[[ラウル・ラパラ]])、[[1904年]]はエントリーを見送った。翌[[1905年]]は、年齢制限によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、大賞どころか予選段階で落選してしまった。すでに『[[亡き王女のためのパヴァーヌ]]』、『[[水の戯れ]]』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは音楽批評家の間に大きな波紋を呼び、フォーレをはじめ、[[ロマン・ロラン]]らも抗議を表明した。さらに、この時の本選通過者6名全てがパリ音楽院作曲家教授であり審査員[[シャルル・ルヌヴー]]の門下生であったことはコンクールの公正さの点からも問題視された。この「'''ラヴェル事件'''」により、パリ音楽院院長の[[テオドール・デュボワ]]([[:fr:Théodore Dubois|Théodore Dubois]])は辞職に追い込まれ、後任院長となったフォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった<ref>アービー・オレンシュタイン、井上さつき訳『ラヴェル 生涯と作品』(音楽之友社、2006年、第2章)</ref>。
 
[[1907年]]、歌曲集『博物誌』の初演後、[[エドゥアール・ラロ]]の息子ピエール・ラロはこの作品を[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の盗作として非難し、論争が起こった。しかし、『[[スペイン狂詩曲 (ラヴェル)|スペイン狂詩曲]]』が高い評価で受け入れられると、すぐに批判はおさまった。そしてラヴェルは、[[バレエ・リュス|バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)]]の主宰者[[セルゲイ・ディアギレフ]]からの委嘱により『[[ダフニスとクロエ (ラヴェル)|ダフニスとクロエ]]』を作曲した。『ダフニスとクロエ』作曲中の1909年にはラヴェルは国民音楽協会と決別し、[[シャルル・ケックラン]]らと現代的な音楽を新しい音楽の創造を目指す団体、[[独立音楽協会]]を旗揚げした。