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| 兄・[[糜竺]] 姉妹・[[麋夫人]]
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'''糜 芳'''(び ほう、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の軍人。はじめ[[劉備]]に、後に[[呉 (三国)|呉]]に仕えた。兄は[[糜竺]]の弟妹は糜夫人(劉備夫人)の兄。[[字]]は'''子方'''。本来の[[姓]]は'''縻'''(靡)と読まれるという。[[徐州]]東海郡{{Lang|zh|朐}}県([[江蘇省]][[連雲港市]])の人。
 
==生涯==
はじめは兄と共に[[徐州]][[牧]]の[[陶謙]]に仕え、次いで劉備に仕えた。劉備が[[曹操]]に帰属した際には兄と共に曹操から評価され、彭城国の相に任命された事もあったが、劉備が曹操から離反するとそれに従った。
 
劉備が[[益州]]に入った後、[[荊州]]総督である[[関羽]]の配下として[[南郡 (中国)|南郡]]に駐屯し、[[公安県|公安]]を守る[[士仁]]と共に荊州の防衛を任された。しかし関羽が彼らを軽んじていた事もあり、かねてから折り合いが悪かった。[[219年]]、関羽が北上して[[樊城]]攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行うだけで、全力で支援しようとしなかった。また、南郡城内で失火事件が起こり、軍器が些か焼失した事があった。これらの不始末を聞いた関羽は「わしが凱旋した後に、この事を我が君に報告し、汝を容赦なく処罰するぞ」と糜芳を激しく咎めた。これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、内心不安になったといわれる。[[孫権]]配下の[[呂蒙]]が南郡攻略を開始すると、糜芳は最初城に立て籠った。しかし、先に降伏した士仁が呂蒙といるのを見ると、酒と肉を用意し、城門を開いて呂蒙に降伏した。
 
これ以後、糜芳は孫権の将軍となり、呉に仕える事になった。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の「呉書」によると、孫権の命で[[賀斉]]配下の武将となり、呉から[[魏 (三国)|魏]]に寝返って反乱を起こした晋宗を討伐したという記述が見える。
 
また「[[虞翻]]伝」によると、糜芳は呉に仕えるようになってから、虞翻と船で擦れ違った事があった。糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「(旧主劉備に対して)忠信(節義)を守れなかった者が、何によって主君に仕えるというのか。二城(南郡・公安)を任されながらそれを失った者が、将軍を名乗ってよいと思っておるのか」と罵倒した。糜芳は姿を見せず返答もしなかったが、急いで虞翻の船を避けさせた。
 
また、ある時に虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないという事があった。虞翻はまた腹を立てて「(城門を)閉めるべき時に開けて降伏をしたりしながら、開けておくべき時に門を閉ざしたりしている。物事の正しいやり方をわかっておるのか」と再び罵倒した。糜芳はこれに恥じ入り、門を開けさせた。
 
== 三国志演義 ==
小説『[[三国志演義]]』でも、兄と共に劉備の配下として活躍する一方、[[長坂の戦い]]では劉備の家族を取り戻そうと敵中に入った[[趙雲]]の行為を、裏切りと早合点し劉備に讒言している。劉備が呉討伐を開始した時、自分と傅士仁と糜芳を殺して[[]]に戻ろうとする荊州出身の兵士を恐れ、劉備の親戚であるから処刑されないとして考え、傅士仁と共に[[馬忠 (孫呉)|馬忠]]を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻ろうとする。しかし、関羽を裏切った事への劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に斬り殺されている。[[吉川英治]]が記した小説では、関羽の子である[[関興]]に引き渡され、父の仇として斬り殺される。
 
[[Category:三国志の登場人物|ひ ほう]]