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'''馬 遵'''(ば じゅん、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の
[[太和 (魏)|太和]]2年([[228年]])、蜀の[[諸葛亮]]が[[北伐]]を開始し祁山に出兵すると、多くの諸県が蜀に呼応した(魏書「[[曹叡|明帝]]紀」)。このとき
▲『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[蜀]]志「[[姜維]]伝」が引く『[[魏略]]』にのみ名がある。姜維伝本文においては、名は明らかにされていない。
「姜維伝」が引く『魏略』によると、馬遵の巡察は
▲[[太和 (魏)|太和]]2年([[228年]])、蜀の[[諸葛亮]]が[[北伐]]を開始し祁山に出兵すると、多くの諸県が蜀に呼応した(「明帝紀」)。このときの魏の天水郡の太守はたまたま巡察の途中だったが、住民が蜀に呼応することを恐れて郡の役所がある冀県に戻らず上邽に逃亡した。この時随行していた属官の[[梁緒]](功曹)、[[尹賞]](主簿)、梁虔(主記)、[[姜維]](中郎)らを置き去りにし、姜維らが追いかけてきても城門を閉ざして受け入れなかった。そのため姜維らは冀県に出向いたが、ここでも拒絶された。進退に窮した姜維らはやむなく蜀に降伏した。
魏
▲「姜維伝」が引く『魏略』によると、馬遵の巡察は[[刺史]]の[[郭淮]]に従ってのもので、諸葛亮の侵攻を聞いた郭淮が上邽への退避を決めたため、馬遵は冀県が西方に偏り過ぎていることも考え、それに従った。姜維は馬遵に冀県に戻ることを勧めたが、馬遵は姜維らを信用せず逆賊と罵ったため、やむなくそれぞれが勝手な行動をするようになったという。
小説『[[三国志演義]]』では、諸葛亮が攻めてきた時に配下の姜維の策で撃退する。しかし、諸葛亮の策にかかって姜維を疑い、姜維が蜀に降伏するきっかけを作っている。その後、蜀軍に攻められ[[夏侯楙]]と共に[[胡]]
▲魏志「[[張既]]伝」が引く『魏略』によると、[[太和 (魏)|太和]]年間の諸葛亮の北伐の際、魏の天水太守と南安太守は郡を棄てて東に奔ったが、かつて張既に取り立てられた隴西太守の游楚だけは任地に留まり、蜀軍を防ぎきったという。游楚が列侯に封じられる一方で、逃亡した天水太守と南安太守は重い刑罰に処せられたという。
▲小説『[[三国志演義]]』では、諸葛亮が攻めてきた時に配下の姜維の策で撃退する。しかし、諸葛亮の策にかかって姜維を疑い、姜維が蜀に降伏するきっかけを作る。その後、蜀軍に攻められ[[夏侯楙]]と共に[[胡]]に逃亡してしまう。
[[Category:三国志の登場人物]]
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