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{{特殊文字|説明=[[JIS X 0213]]、[[簡体字]]}}
'''拓跋鬱律'''([[呉音]]:たくばつ うちりち、[[漢音]]:たくばつ うつりつ、[[拼{{ピン]]:Tuòbá|Tuòbá YùlǜYùlǜ}}、? - [[321年]]没)は、[[鮮卑]][[拓跋部]]の大人(たいじん:部族長)および[[五胡十六国時代]]の[[代 (五胡十六国)|代国]]の王(在位:[[317年]] - [[321年]])。父は[[拓跋弗]]、子には[[拓跋翳槐]]、[[拓跋什翼ケン|拓跋什翼{{JIS2004フォント|犍}}]]、[[拓跋孤]]がいる。
 
== 生涯 ==
穆帝3年([[310年]])、[[并州]][[刺史]]の[[劉コン|劉{{JIS2004フォント|琨}}]]は[[代 (五胡十六国)|代国]]に遣使を送り、子の[[劉遵]]を人質とさせた。[[拓跋猗盧]]はその意を喜び、厚く褒美を贈る。[[白部 (鮮卑)|白部]]大人は叛いて[[西河郡|西河]]に入り、これに応じて[[匈奴]][[鉄弗部]]の[[劉虎 (鉄弗部)|劉虎]]は[[雁門郡|雁門]]で挙兵し、劉{{JIS2004フォント|琨}}のいる[[新興郡|新興]]、雁門の2郡を攻める。劉{{JIS2004フォント|琨}}は援軍を要請し、猗盧は甥の拓跋鬱律の将騎2万を使い、劉{{JIS2004フォント|琨}}を助けこれを撃ち、白部を大破する。
 
穆帝9年([[316年]])、[[拓跋猗盧|穆帝]]、[[拓跋普根|文平帝]]、[[哀帝 (代)|哀帝]]が相次いで亡くなり、[[拓跋弗|思帝]]の子の鬱律が即位した。
 
平文帝2年([[318年]])、鉄弗部の劉虎は[[朔方郡|朔方]]に拠り、代国西部に侵攻してきた。拓跋鬱律はこれを大破し、劉虎を敗走させる。劉虎の従弟の[[劉路孤]]は部落を率いて帰順してきたので、鬱律は娘をやった。このころの代国は、西は[[烏孫]]の故地を兼ね、東は[[勿吉]]以西を併し、騎射ができる将は100万にのぼったという。この年、[[前趙|漢]]の[[劉聡]]が死んで子の[[劉粲]]が立つが、在位1月でその外戚の[[キン準|{{JIS2004フォント|靳}}准]]に殺されたので、[[劉淵]]の族子の[[劉曜]]が立った。劉曜は遣使を送り代国に和親をはかったが、鬱律は[[西晋|晋]]の[[愍帝 (西晋)|愍帝]]が劉曜に殺されたと聞いていたので、受け入れなかった。
 
平文帝3年([[319年]])、[[石勒]]は自ら[[後趙|趙王]]と称し、代国と和親をはかり、兄弟となることを請うた。しかし、鬱律は遣使を斬り捨て断絶する。
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平文帝4年([[320年]])、[[前涼|涼州]][[刺史]]の[[張茂]]の遣使が代国に朝貢する。
 
平文帝5年([[321年]])、[[東晋]]の[[元帝 (東晋)|元帝]]が遣使を送り爵位を与えるが、鬱律はこれを断った。[[拓跋猗|桓帝]]の后([[祁氏 (拓跋)|祁氏]])は、鬱律が衆の心を得ているのに対し、自分の子に利がないのを恐れて、鬱律と諸大人(たいじん:部族長)を殺し、死者は数10人に及んだ。鬱律の死後は祁氏の子、[[拓跋賀ル|拓跋賀{{zh|傉}}]]が即位した。
 
のちに、[[北魏]]の[[道武帝]]より、'''太祖平文皇帝'''と追尊された。
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*子
**烈帝([[拓跋翳槐]])…長男
**高祖昭成帝([[拓跋什翼犍]]{{JIS2004フォント|犍}})…次男
**高涼王([[拓跋孤]])…四男
*娘
**拓跋氏…[[劉路孤]]の妻
**拓跋氏…[[賀蘭紇|賀蘭{{JIS2004フォント|紇}}]]の妻
 
== 参考文献 ==
*『[[魏書]]』(帝紀第一、列伝第一、列伝第二)
 
{{先代次代|[[代 (五胡十六国)|代王]]|第4代:317年 - 321年|[[哀帝 (代)|哀帝]]|[[拓跋賀ル|拓跋賀{{zh|傉}}]]}}
 
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