「明応地震」の版間の差分

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林叟院創記
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仁科では海岸から十八九[[町 (単位)|町]](約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)。八木沢の妙蔵寺(現・[[伊豆市]])には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内の[[スギ|杉]]に海草がかかったとも伝えられている<ref name="Hatori1977">{{PDFlink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12645/1/ji0523005.pdf 羽鳥徳太郎(1977)]}} 羽鳥徳太郎(1977): 27. 静岡県沿岸における宝永・安政東海地震の津波調査,''地震研究所彙報'',52, 407-439.</ref>。この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる<ref name="Tsuji2011" />。[[沼津市]]戸田地区の平目平には[[ヒラメ]]が打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0917/TKY201109170541.html asahi.com] [[都司嘉宣]] 津波高さ36メートルまで到達? 500年前の東海地震</ref>。
 
『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の[[志太郡]]付近で水死2万6千とされるが<ref name="jiten" />、[[明治]]時代の志太郡の人口も2万6千人には満たず、信憑性は不明であるとされ<ref name="soran" /><ref name="Yata" />、あるいはこの数はこの地震全体の犠牲者数を林叟院が纏めたものであると考えるのが妥当とされる<ref>都司嘉宣 『千年震災』 ダイヤモンド社、2011年</ref>。また安政東海地震では焼津付近は隆起しているが、この記録は本地震で沈降したことを示唆している<ref name="Iida" />。
 
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった[[浜名湖]]が、津波により[[太平洋]]とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した<ref name="Koyama" />。かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永津波により今切が拡大し再び移転を余儀なくされた<ref name="Yata" /><ref name="Yata2005">{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/03-Yata.pdf 矢田俊文(2005)]}} 矢田俊文(2005): [講演記録] 1498年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災, 『歴史地震』 第20号, 9-12.</ref>。
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== 南海地震連動の可能性 ==
明応地震の歴史記録は、東海・東南海地震のみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高い南海地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は[[応仁の乱]]以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性が高いとされる<ref>{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/13-Ando2.pdf 安藤雅孝(2005)]}} 安藤雅孝 「1605年慶長地震のメカニズム」『歴史地震』第20号、2005年</ref>。
 
1988年、[[高知県]][[中村市]](現・[[四万十市]])[[四万十川]]支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から[[15世紀]]末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。[[徳島県]][[板野町]]の[[吉野川]][[沖積低地]]では[[14世紀]]後半から[[16世紀]]初頭までに存続した集落跡の調査で、[[液状化現象]]による噴砂の痕跡が発見された<ref>寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年</ref>。加えて、[[愛媛県]][[新居浜市]]の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、[[四国]]における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている<ref name="Sangawa">寒川旭 『地震 "なまず"の活動史』 大巧社、2001年</ref>。
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また、明応7年6月11日未-申刻(ユリウス暦1498年6月30日15時頃、グレゴリオ暦1498年7月9日)には[[九州]]において家屋倒壊被害の記録があり、[[伊予国|伊予]]では陥没などの地変を筆頭に[[1498年日向灘地震|日向灘地震]]と推定される地震の記録があったが、同日には[[畿内]]でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている<ref>[[国立天文台]] 『[[理科年表]]』 丸善、2012年版</ref>。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海地震の可能性が高く、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、[[呉州 (江蘇省)|蘇州]]で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり<ref name="Utsu1988">{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/4/41_4_613/_pdf 宇津徳治(1988)]}} 宇津徳治(1988): 日本の地震に関連する中国の史料, 『地震』第2輯, '''41''' , pp.613- 614.</ref>、[[中国]]の[[江蘇省]]、[[浙江省]]では[[長江|揚子江]]を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や[[安政南海地震]]でも観測されていることから、上述の日向灘地震は南海地震に含まれる、あるいは南海地震と連動した可能性も指摘されている<ref name="jiten" /><ref>都司嘉宣、上田和枝(1997): 明応(1498)南海地震の存在とその日付について, 地球惑星科学関連学会1997年合同大会講演予稿集, 169.</ref><ref>[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html 2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓]東京大学地震研究所</ref>。これが事実ならば、南海地震が東海・東南海地震に73日先行して発生したことになる。
 
一方で6月11日の地震を南海地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海地震および南海地震が連動した可能性もあるとされる<ref>石橋克彦(2002): フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震 -史料地震学による概要-, 京都大学防災研究所研究集会13K-7, 報告書, 1-9.</ref>。
 
== 参考文献 ==