「日ソ国境紛争」の版間の差分

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==概要==
{{和暦|[[1931}}年]](昭和6年)の[[満州事変]]以後、日本とソ連は満州で対峙するようになった。一連の紛争の経過は、小規模紛争期(1934年以前)、中規模紛争期(1935~1936年)、大規模紛争期(1937~1940年)に区分することができる<ref name="gaiken">「満州国建国(昭和七年)以降満ソ国境紛争に関する概見表」戦史叢書 関東軍(1)、310~311頁。</ref>。初期には回数も少なく規模も小さかったのが、次第に頻発・大規模化し、[[張鼓峰事件]]を経て[[ノモンハン事件]]で頂点に達した。形式的には満ソ・満蒙紛争であっても、日ソ両軍が直接交戦する事態も発生した。最大のノモンハン事件では、双方合わせて4万4千人以上が死傷する大規模戦闘となった。
 
その後、{{和暦|[[1941}}年]](昭和16年)の[[日ソ中立条約]]締結により紛争は一応の終結を見た。日本とソ連は、モンゴル人民共和国と満州国を相互に実質的に承認し、紛争の発生件数も減少した紛争低調期に入った。[[第二次世界大戦]]後期に[[独ソ戦]]がソ連有利となり、対日全面戦争を視野に入れた[[赤軍|ソ連軍]]が活動を活発化させるまで、こうした安定状態は続いた。
 
==背景==
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[[ファイル:IJA troops enter Mukden.jpg|thumb|right|200px|満州事変で[[瀋陽市|瀋陽]]に入城する日本軍。(1931年9月18日)]]
{{see also|日露関係史}}
{{和暦|[[1925}}年]](大正14年)の[[日ソ基本条約]]により、日ソの外交関係は一応は確立していた。[[シベリア出兵]]の終了後、[[1920年代]]には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は[[租借地]]の[[関東州]]、ソ連は極東の国土と1924年に成立した[[モンゴル人民共和国]]を勢力圏に置いて、中間に満州を挟んでいた。ただし、日本は[[共産主義]]国家であるソ連に対して、警戒心を持っていた。
 
両国の勢力圏の中間にある満州は、1920年代後半には[[中国]]の[[奉天派]]が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、[[易幟]]した奉天派の[[張学良]]はソ連からの利権回収を試みたが、{{和暦|[[1929}}年]](昭和4年)の[[中ソ紛争]]に敗れた。それ以前から[[張作霖爆殺事件]]を起こすなど勢力伸長の機会をうかがっていた日本の[[関東軍]]は、奉天派の軍事的実力の低さを見たこともあり、{{和暦|[[1931}}年]](昭和6年)に[[満州事変]]を起こして満州を占領し、翌年には[[満州国]]の建国を宣言させて勢力下に置いた。こうして、日ソ両国の勢力圏が、大陸でも直接に接することになった。
 
ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採った。これにより[[東清鉄道|北清鉄路]]を[[南満州鉄道]]に売却する交渉が始まったが、すぐには金額面で折り合いがつかなかった。
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===軍事的状況===
[[ファイル:Manchukuo Imperial Army.JPG|thumb|right|200px|満州国軍の騎兵隊。]]
{{和暦|[[1932}}年]](昭和7年)の[[日満議定書]]により、日本は満州国の防衛に責任を持つと定められ、関東軍は満州全土に駐留することになった。[[朝鮮半島]]に近い地域については、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]の管轄下とされた。満州国独自の軍事力として[[満州国軍]]が整備されており、1935年時点では歩兵[[旅団]]26個と[[騎兵]]旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備状態は良好とはいえなかった。
 
一方、ソ連は、1929年から[[極東軍管区|特別極東軍]](1930年以降は特別赤旗極東軍と呼称)を極東方面に置いており、次第に増強を進めて張鼓峰事件直前の1938年7月1日には極東[[戦線#ソビエト軍での用法|戦線]](極東方面軍)に改編した。モンゴルとは{{和暦|[[1934}}11年]](昭和9年)11月に相互援助に関する[[紳士協定]]で事実上の[[軍事同盟]]を結び、紛争が増加しつつあった{{和暦|[[1936}}3年]](昭和11年)3月には[[ソ蒙相互援助議定書]]として明確化した。ソ蒙相互援助議定書に基づき、1936年夏からソ連軍[[装甲部隊|機甲部隊]]がモンゴル領に常駐するようになり、翌年には[[軍団]]規模に達した。モンゴル独自の軍事力である[[モンゴル人民革命軍]]はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車旅団1個を有していた<ref>マクシム・コロミーエツ 『ノモンハン戦車戦』 大日本絵画〈独ソ戦車戦シリーズ〉、2005年、31~32頁。</ref>。
 
満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が兵力で優っていた。1934年6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、日本側の推定によればソ連軍は11個歩兵[[師団]]を配備していた。それが、1936年末までには日本軍が変化がないのに対し、ソ連軍は16個歩兵師団に増強され、対日戦力比は日本:ソ連=1:2から1:3に開いた。[[戦車]]や[[軍用機]]についての兵力差はさらに大きかった。日本軍も軍備増強を進めたが、[[日中戦争]]の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年になっても日本の11個歩兵師団に対してソ連の30個歩兵師団と差は縮まらなかった。
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==小規模紛争期==
満州事変以後、{{和暦|[[1934}}年]](昭和9年)頃までは、多少の紛争はあったものの、ごく小規模なものだった。1932年~1934年の3年間に発生した日ソ関係の満州国境紛争は合計で152件あったが、少数の偵察員が潜入したり、住民を拉致したり、航空機が[[領空侵犯]]するといった偵察活動や、国境標識を密かに移動するといった程度にとどまっていた<ref name="gaiken" />。個別の事件名を付するほどの紛争は起きていない。
 
国境問題が意識されていなかったわけではなく、{{和暦|[[1933}}1年]](昭和8年)1月には、日本からソ連に対して国境紛争処理に関する委員会設置が提案されていた<ref>戦史叢書 関東軍(1)、311~312頁。</ref>。しかし、日本が国境画定を委員会の目的の一つに挙げたのに対して、ソ連は、すでにアイグン条約などで国境は確定済みであるとの立場で、両者は前提からすれ違っていた。日本が同時期に[[不可侵条約]]提案を拒絶していたことや、北満鉄路売却問題が優先事項であったことなども影響し、委員会設置は実現しなかった。
 
==中規模紛争期==
===概説===
{{和暦|[[1935}}年]](昭和10年)に入ると国境紛争は激増し、1935年と1936年には紛争発生件数は年間150件を超えた<ref name="gaiken" />。そして、規模も次第に大型化した。この変化は、ソ連側の外交姿勢の高圧化によると考えられる<ref>戦史叢書 関東軍(1)、314頁。</ref>。ソ蒙相互援助に関する紳士協定・ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進み、日本軍との戦力バランスが崩れたのもこの時期である。
 
この時期の日本側は、陸軍中央と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、[[騎兵集団]]高級[[参謀]]の[[片岡董]]中佐らが、関東軍司令部と密接に連絡を取って慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた<ref>戦史叢書 関東軍(1)、320、328~329頁。</ref>。
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1935年12月に[[貝爾湖]](ボイル湖)南西へ監視哨設置に向かった満州国軍が、モンゴル軍から銃撃を受けたことから、オラホドガ(オラン・ホトック)付近でにらみ合いとなり'''[[オラホドガ事件]]'''が始まった。航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や[[九二式重装甲車]]小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄[[大尉]])を出動させた。杉本支隊は、装甲車を含むモンゴル軍と[[遭遇戦]]となり、戦死8名と負傷4名の損害を受けた。モンゴル軍は満州国側の主張国境外へと退去した。関東軍司令部は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があればやむを得ず越境することも許すとした方針を決め、[[独立混成第1旅団]]の一部などを[[ハイラル区|ハイラル]]へ派遣して防衛体制を強化した<ref>戦史叢書 関東軍(1)、323~324頁。</ref>。
 
{{和暦|[[1936}}3年]](昭和11年)3月には、警備交代とオラホドガ偵察任務の渋谷支隊(長:渋谷安秋[[大佐]]。歩兵・機関銃・戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州国軍トラックが破壊されたことから、'''[[タウラン事件]]'''が発生した。このとき、モンゴル軍も騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車10数両の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2両がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は13名が戦死して1名が捕虜となり、トラックの大半が損傷した。モンゴル軍も装甲車を[[鹵獲]]されるなど、かなりの損害を受けた。本格的機甲戦や空中戦こそなかったものの、双方とも有力な装甲車両や航空機を投入した近代戦となった<ref>戦史叢書 関東軍(1)、327頁。</ref>。
 
===東部国境===
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==大規模紛争期==
===概説===
{{和暦|[[1937}}年]](昭和12年)以降も紛争の件数は年間100件を超え続け、1939年には200件近くに達した。外交交渉による解決率はさらに低下し、一定の解決を見たのは1937年には11件、1938年には2件、1939年に至っては0件となった<ref name="kougi" />。規模の拡大も止まらず、張鼓峰事件やノモンハン事件が発生した。
 
日本側は、[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]など陸軍中央の大勢が依然として不拡大方針を採ったのに対して、関東軍司令部は断固とした対応を強調した「満ソ国境紛争処理要綱」を策定していた。関東軍司令部としても安易な戦闘拡大は避けるべきとの認識は持っていたものの、劣兵力での国境維持には、一撃を与えて断固とした態度を示すことがかえって安定につながるとの判断も有力だったためである<ref>戦史叢書 関東軍(1)、421頁。</ref>。この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる<ref>鎌倉、83~85頁。</ref>。
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===乾岔子島事件===
{{main|乾岔子島事件}}
{{和暦|[[1937}}6年]](昭和12年)6月から7月に、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争が起きた。
 
アムール川の国境はアイグン条約によって全ての島がロシア帝国領と定められていたが、水路協定では航路が乾岔子島よりソ連領側に設定され、国際法の原則や居住実態からも日満側は同島を満州国領とみなしていた<ref>戦史叢書 関東軍(1)、329、332頁。</ref>。ソ満間の水路協定の改定交渉は前年に決裂しており、ソ連は、1937年5月に水路協定の破棄を通告した。6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。これに対して日本[[陸軍参謀本部]]も関東軍に出動を命じたが、[[石原莞爾]]少将の進言などにより、6月29日に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された<ref>戦史叢書 関東軍(1)、334頁。</ref>。
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===張鼓峰事件===
{{main|張鼓峰事件}}
{{和暦|[[1938}}7年]](昭和13年)7月、[[豆満江]]近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した。張鼓峰については国境線解釈に相違があったが、従前は日ソ両軍とも張鼓峰自体に兵力を常駐してはいなかった。
 
7月中旬にソ連軍が張鼓峰に部隊を進めたのに対して、日本側の警備担当の朝鮮軍隷下[[第19師団 (日本軍)|第19師団]]も警備を強化した。監視任務の日本兵が射殺されたのをきっかけに緊張が高まり、7月29日から戦闘が始まった。日本側が不拡大方針で第19師団の一部のみで対処したのに対して、ソ連軍は戦車や航空機多数を出撃させ、激戦となった。
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===ノモンハン事件===
{{main|ノモンハン事件}}
{{和暦|[[1939}}5年]](昭和14年)5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でのモンゴル軍と満州国軍の小競り合いから、第一次ノモンハン事件が発生した。ハルハ川東岸を占領したソ蒙軍機械化部隊1500人に対して、騎兵集団から任務を交代していた日本の[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]が山県支隊2000人を出動させて戦闘になった。日本軍は国境紛争処理要綱に従った包囲殲滅を図ったが、突破退却された。激しい空中戦も発生した。
 
[[ファイル:SovietArmouredVehicle.jpg|thumb|right|250px|撃破されたソ連軍のBA-10中装甲車。]]
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==日ソ中立条約以後==
ノモンハン事件の停戦後、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に[[第二次世界大戦]]が始まっている状況の中で、日ソの外交交渉が行われた。そして、{{和暦|[[1941}}4年]](昭和16年)4月に[[日ソ中立条約]]が成立し、相互不可侵と、モンゴル人民共和国及び満州国の領土保全が定められた。
 
日本陸軍はノモンハン事件でソ連軍の実力を知り、[[北進論]]に否定的な見方も出た。それでも、[[独ソ戦|独ソ開戦]]翌月の1941年7月には[[関東軍特種演習]]と称する対ソ動員を実行したが、開戦には踏み切らず、[[南進論]]に基づく[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]との[[太平洋戦争]]へと向かった。他方のソ連も独ソ戦に主力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った<ref name="gaiken" />。
 
満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、日本の戦況が悪化した1943年秋ごろまで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、ソ連の対日参戦が近付いた{{和暦|[[1944}}年]](昭和19年)後半には[[五家子事件]]、虎頭事件、光風島事件、[[モンゴシリ事件]]などの小規模な国境紛争が起きた<ref name="gaiken" />。関東軍の戦力の多くを南方や日本本土に転用してしまっていた日本側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採った。最終的には{{和暦|[[1945}}8年]](昭和20年)8月に[[ソ連対日参戦|日ソ全面戦争]]となり、満州全土がソ連に占領された。
 
==年表==