「赤木春恵」の版間の差分

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'''赤木 春恵'''(あかぎ はるえ、{{和暦|[[1924}}年]](大正13年)[[3月14日]] - )は、[[満州]]出身の[[俳優|女優]]。身長152cm、[[ABO式血液型|血液型]]はB型。[[満州国]]出身。[[オフィスのいり]]所属。
== 来歴・人物 ==
{{和暦|[[1940}}年]](昭和15年)には[[松竹]]に'''ニューフェース'''として入社する({{和暦|[[1943}}年]](昭和18年)に[[大映]]へ移籍する)。
 
戦時中は慰問劇団に所属し、国内や旧満州などを巡業した(この時に[[森光子]]と知り合い、森が結核で療養し音信不通となっていた時期を除いて深い親交を結んでおり、赤木は「ソウルメイトのようなものですね」と振り返っている)。
 
{{和暦|[[1948}}年]](昭和23年)には[[東映]]へと移籍。{{和暦|[[1959}}年]](昭和34年)に森繁劇団に参加するにあたり、フリーとなった。
 
{{和暦|[[1972}}年]](昭和47年)『[[藍より青く]]』にて一躍全国区の人気を得る。
 
[[橋田壽賀子]]の作品には、{{和暦|[[1974}}年]](昭和49年)の『四季の家』初出演して以降、『[[となりの芝生]]』『[[おんな太閤記]]』『[[渡る世間は鬼ばかり]](後述に詳しく記載)』などに出演。よって'''橋田ファミリー'''の一員としても数えられる(橋田とは番組の打ち上げにて即席デュオ「'''ザ・ドーナッツ'''」を結成したほどの仲)。
 
{{和暦|[[1979}}年]](昭和54年)には『[[3年B組金八先生]]』に君塚美弥子役でレギュラー出演(レギュラー降板後もゲスト出演するほどの当たり役となり、教育関係者から講演を頼まれたほど)。
 
{{和暦|[[1983}}年]](昭和58年)の著書「おばあちゃんの家事秘伝」がベストセラーになる。
 
{{和暦|[[1990}}年]](平成2年)からは『渡る世間は鬼ばかり』がスタート(赤木は初回から毎回出演し、嫁役の[[泉ピン子]]をいびるシーンはドラマのウリとなった)。以降[[2011年]]までシリーズは継続され、本人は[[2005年]]に一時降板するも、最終回にゲスト出演するなど、ほぼすべてのシリーズに出演。一方、自身まで役と同様に見られ「孫の運動会に行くに行けない」という苦しい思いを経験した。
 
{{和暦|[[2007}}年]](平成19年)秋に乳がんが見つかり、友人である[[大空真弓]]に相談して病院を紹介してもらい、年末に左乳房を全摘出して完治({{和暦|[[2009}}年]](平成21年)に『[[徹子の部屋]]』で発表)。
 
{{和暦|[[2011}}年]](平成23年)[[6月13日]]のコロッケの東京・明治座7・8月舞台公演の製作発表会に出席、親交の深いコロッケの舞台を最後に「これで私の卒業公演にしたい」と舞台からの引退を宣言した(理由は「現在は健康だが、いつご迷惑を掛けるか分からない。余裕のあるときにお別れした方がいいと思った」と述べている)。舞台エンディングでは親友の森から花束と共に届いた「戦争のつらい経験を乗り越えてきたからこそ、ここまで頑張ってこられました。いつも二人で支え合って来たわね」という手紙を共演の[[熊谷真実]]に代読され、 「森さんの手紙がグッときました。心友(親友)なんで…」と感極まっていた。
 
愛煙家であり、森からは「健康のために禁煙しなさい」と会うたびに冗談ながらに注意されている(『徹子の部屋』出演時)。
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*棟方志功物語
== 受賞歴 ==
*{{和暦|[[1987}}年]]昭和62年)(第13回[[菊田一夫演劇賞]]受賞)
*{{和暦|[[1993}}年]](平成5年)秋([[紫綬褒章]]受賞)
*{{和暦|[[1998}}年]](平成10年)秋([[宝冠章|勲四等寶冠章]]受章)
*{{和暦|[[1999}}年]]平成11年)(橋田文化財団特別賞受賞)
*{{和暦|[[2010}}年]]平成22年)(第19回日本映画批評家大賞 ゴールデングローリー賞受賞)
== 外部リンク ==
* [http://www.noiri1986.com/profile/harue_akagi.htm 事務所プロフィール]