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Kinno Angel (会話 | 投稿記録)
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'''39箇条'''(さんじゅうきゅう かじょう,The Thrity-Nine Articles)は[[英国国教会]]が16世紀の神学論争の終止符を打つために議会で受け入れたプロテスタントの教義要綱である。この要綱で、[[カトリック教会]]、[[アナバプテスト派]]、[[改革派教会]]に対して英国教会の教理的立場を明らかにした。'''[[聖公会]]大綱'''とも呼ばれる。
 
英国聖公会の教義的立場を明確にする箇条ではあるが、全ての聖公会の教会が信徒に同意を義務付けるものではない。日本聖公会はその設立時に採用を見合わせた<ref>[http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/39kajyo.html 英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)]([http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/ 熊本聖三一教会ホームページ]内のページ)</ref>。
 
 
== 成立経緯 ==
[[エドワード6世]]の即位により、[[カンタベリー大主教]][[クランマー]]と改革派の実権を握るようになった。クランマーは[[ドイツ]]と[[スイス]]の改革者の援助で福音的公同信条を作成しようとしたが、英国教会の教理的立場を表わす、42箇条の作成が優先された。42箇条は1549年にクランマーが着手して、1552年11月に完成して、エドワード6世の承認を経て出版された。
 
1553年にエドワード6世が亡くなり、カトリックの[[メアリ1世]]が即位すると、クランマーらは処刑された。メアリ1世はカンタベリ大主教にカトリックの人物を据えて、英国のカトリックの復帰をもくろんだ。しかし、メアリ1世は死去して、[[エリザベス1世]]が即位すると、[[パーカー]]が大主教になった。1563年にエリザベス1世が主教会議を招集し、パーカーが42箇条のラテン語版を会議に具申したが、上院と下院が検討して、39箇条に改訂して承認された。こうして、1563年に39箇条が出版された。1571年の主教会議では、39箇条の英語版が採択された。
 
39箇条は[[アウグスブルク信仰告白]]、[[ヴュルテンベルク信仰告白]]、[[ツヴィングリ]]、[[ブリンガー]]、[[カルヴァン]]など宗教改革者の著作影響を受けている。[[教会政治]]論は[[エラストゥス]]の立場を持っている。他方、祈祷書と職制に関してはプロテスタントと異なる解釈となっている。
 
故に、本質的には[[ルター派]]、[[改革派]]と一致する立場である。また、[[教会政治]]論は[[エラストゥス]]の立場を持っている。祈祷書と職制に関しては英国教会独自の解釈である。
 
== 参考文献 ==
*ウィリストン・ウォーカー著、塚田理、八代崇訳『キリスト教史、宗教改革』ヨルダン社、1983年
*泥谷逸郎「39箇条」『新キリスト教辞典』[[いのちのことば社]]、1991年
 
== 外部リンク ==
* [http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/39kajyo.html 英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)]([http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/ 熊本聖三一教会ホームページ]内のページ)
 
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