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[[File:Edward George Earle Lytton Bulwer Lytton, 1st Baron Lytton by Henry William Pickersgill.jpg|thumb|初代リットン男爵[[エドワード・ブルワー=リットン]]([[ヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル]]画)]]
[[ダービーシャー|カウンティ・オブ・ダービー]]における'''リットン伯爵'''({{lang-en-short|'''Earl of Lytton''', in the County of Derby}})は、[[イギリス]]の[[伯爵]]位。[[連合王国貴族]]。[[1880年]]に、[[インドの総督]]を務めた政治家・外交官の第2代リットン男爵[[{{仮リンク|ロバート・ブルワー=リットン]]|en|Robert Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton}}が叙位されたことに始まる。
 
初代伯は父親から[[ハートフォードシャー|カウンティ・オブ・ハートフォード]]における[[ネブワース]]の'''リットン男爵'''({{lang|en|'''Baron Lytton''', of [[:en:Knebworth|Knebworth]] in the County of Hertford}})の爵位を相続しており、また伯爵叙位の際にカウンティ・オブ・ハートフォードにおける'''ネブワース子爵'''({{lang|en|'''Viscount Knebworth''', of Knebworth in the County of Hertford}})にも叙されたため、リットン伯爵にはこの二つの連合王国貴族の爵位が付属する。伯位の[[法定推定相続人]]は、[[儀礼称号]]としてネブワース子爵と称する。
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代表作に『[[ポンペイ最後の日]]』(''{{interlang|en|The Last Days of Pompeii}}'')がある小説家にして、第14代[[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]の[[第2次ダービー内閣|第2次内閣]]で[[植民地大臣]]({{interlang|en|Secretary of State for the Colonies}})を務めた政治家でもあった[[エドワード・ブルワー=リットン]]は、[[1838年]]に[[準男爵]]の称号を与えられ、[[1866年]]にリットン男爵に叙された。なお彼の出生時の姓は「ブルワー」であったが、[[1844年]][[2月20日]]に勅許を得て「ブルワー=リットン」へ改めている。
[[File:University of Glasgow - Old and New, Robert Bulwer Lytton.png|thumb|left|初代リットン伯爵[[ロバート・ブルワー=リットン]]([[トマス・アナン]]撮影)]]
後にリットン伯爵に叙された第2代リットン男爵[[{{仮リンク|ロバート・ブルワー=リットン]]|en|Robert Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton}}は、この初代男爵の長男であった。彼は外交官および詩人であり、襲爵後の[[1876年]][[4月12日]]に[[インドの総督]]([[副王]])に任命された。副王在職中に[[イギリス領インド帝国]]では大[[飢饉]]({{interlang|en|Great Famine of 1876–78}})が発生したが、これが天災か人災かは論争の対象となっている。また[[バーラクザイ朝]][[アフガニスタン]]へ送った使節が拒絶されたことがきっかけで第2次[[アフガン戦争]]が勃発した。イギリス側は当初の目論見に反して苦戦し、[[イギリスの首相|首相]]の[[ベンジャミン・ディズレーリ]]は総選挙に敗れて退陣、第2代リットン男爵も副王を辞職した。帰国後の[[1880年]]にリットン伯爵に叙され、その後[[在フランスイギリス大使]]となり、赴任先の[[パリ]]で死去した。
 
[[File:2ndEarlOfLytton.jpg|thumb|第2代リットン伯爵[[ヴィクター・ブルワー=リットン]]]]
2代伯となった[[ヴィクター・ブルワー=リットン|ヴィクター]]は、初代伯の長男である。彼も政治家で、[[1920年]]から[[インド担当省]][[政務次官]]({{interlang|en|Under-Secretary of State for India|Parliamentary Under-Secretary of State for India}})を、[[1922年]]から[[ベンガル州]]知事({{interlang|en|List of Governors of Bengal|Governor of Bengal}})を務め、[[1925年]]には短期間ながらインド副王となった。日本においては[[1930年代]]初めに[[リットン調査団]]の団長として[[満州事変]]の調査を行なったことで知られる。
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== リットン男爵 (1866年) ==
* [[エドワード・ブルワー=リットン|エドワード・ブルワー=リットン (初代リットン男爵)]] (1803年 - 1873年)
* [[{{仮リンク|ロバート・ブルワー=リットン|en|Robert Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton|label=ロバート・ブルワー=リットン (第2代リットン男爵)]]}} (1831年 - 1891年)
** 1880年、リットン伯爵に叙位
 
== リットン伯爵 (1880年) ==
* [[{{仮リンク|ロバート・ブルワー=リットン|en|Robert Bulwer-Lytton, 1st Earl of Lytton|label=ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵)]]}} (1831年 - 1891年)
* [[ヴィクター・ブルワー=リットン|ヴィクター・ブルワー=リットン (第2代リットン伯爵)]] (1876年 - 1947年)
* [[ネヴィル・ブルワー=リットン|ネヴィル・ブルワー=リットン (第3代リットン伯爵)]] (1879年 - 1951年)