「サンタンジェロ城」の版間の差分

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==概要==
[[135年]]、[[ローマ帝国]]の[[皇帝]]でいわゆる「[[五賢帝]]」のひとり[[ハドリアヌス]]が自らの[[霊廟]]として建設を開始し、[[アントニヌス・ピウス]]治世の[[139年]]に完成した。霊廟はきれいな円形平面をなし、[[太陽]]を象徴したハドリアヌスが[[戦車]]を引く像が頂上に設置された。しばらくすると軍事施設として使用されはじめ、[[403年]]には[[アウレリアヌスの城壁]]の一部に組み入れられた。
 
 
[[14世紀]]以降は歴代のローマ教皇によって[[要塞]]として強化され、また、同時に[[牢獄]]や[[避難所]]としても使用された。
<!-- ([[Benvenuto Cellini]] vi sarebbe stato rinchiuso nel [[XVI secolo]]) -->
 
[[16世紀]]前半の教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]は、ローマが[[神聖ローマ皇帝]]軍により恐ろしい略奪([[ローマ略奪]])を受けている間、皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]率いるドイツ人[[傭兵]]([[:it:Lanzichenecchi|Lanzichenecchi]])の包囲に抵抗するため、この機能を使用した。[[17世紀]]前半には教皇[[ウルバヌス8世 (ローマ教皇)|ウルバヌス8世]]がサンタンジェロ城の強化に努め、[[1667年]]に教皇となった[[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]は、バロック芸術の大家で旧友の[[ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ]]にサンタンジェロ橋の装飾を依頼しており、[[]]ベルニーニ自作の2体ふくむ10体の[[天使]]像の[[彫刻]]で飾られている<ref group="注釈">クレメンス9世は、教皇となる以前の名をジュリオ・ロスピリオネージといい、学識豊かなウルバヌス8世が教皇だったとき文人として教皇ウルバヌスの周辺に集まった人びとのなかのひとりであった。また、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは教皇ウルバヌス8世にサン・ピエトロ大聖堂の大改装を任された大芸術家であった。[[#ラルース2|『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.260-262]]</ref>。
 
サンタンジェロ城の名称は、[[590年]]にローマで[[ペスト]]が大流行した際、時の教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]が城の頂上で[[剣]]を鞘に収める大天使[[ミカエル]]を見て、[[ペスト]]流行の終焉を意味するとしたことに由来する。その故事を記念して、16世紀にラファエッロ・ダ・モンテルーポ([[:it:Raffaello da Montelupo|Raffaello da Montelupo]])による[[大理石]]製の天使の像を城の頂上に設置した。[[1753年]]からは[[:it:Pierre van Verschaffelt|Pierre van Verschaffelt]]による[[青銅]]製の像が設置してある。