「岡田茂 (東映)」の版間の差分

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=== その他 ===
* [[1953年]]、[[深作欣二]]は入社間もない頃、本社企画部に在籍した。企画合同会議があったある朝、長身美貌の青年・岡田が企画部室に入ってきたと思うと、いきなり『やァ暑いですなあ、こう暑いと“[[性行為|お○○こ]]”する気にもなれませんなあ』と傍若無人の大声を発した。新入社員としてはさすがに唖然として、一年先輩の[[工藤栄一]]に『あれは誰です?』と聞くと『京撮の岡田製作課長だ』という。活動屋なんてガラの悪いものと承知はしていたが、当時から既に切れ者と評判高い東大出のエリート課長の発言だけに、度肝を抜かれたという<ref name="0東映三十年_232" />。
 
* [[工藤栄一]]は、岡田を『色んな意味で頭がいいと思った。人間を掌握したり、自分でトラブルを解決したり、明快だったよね。それに勢いがあった。人を集めて、バーッとやらせるという。映画てのはそれでいいと思う』と評している<ref name="光と影_67" />。 [[1955年]]、後の東京撮影時所長・幸田清が、現場で下働きして数ヵ月後、事務方に配属の辞令を受けたが、当時30歳の岡田製作課長に抗議にいったら、「現場が好きか」と聞かれ、希望通り現場に籍を置けることになった。一課長が辞令をねじ曲げたことに驚いたという<ref>新潟日報夕刊<連載 ひと賛歌 幸田清 活動屋半世紀⑤>2011年11月15日</ref>。
 
* 東映が[[1954年]]から二本立て体制を始めたのは前年、大川とマキノがアメリカに行ったら二本立てをやっていて『わしらも帰ってやろう』と考えた単純な動機から。『どうやるんですか』と岡田が聞いたら『何でもええ、子供向けのチャラチャラしたもんを1週間に1本やれ(作れ)』と言われたという<ref name="0東映三十年_226" />。全員を集めて『やるしかないんだ。三部作を原則にいこう』と檄を飛ばした。いまでいうテレビ番組をつくる感覚であったという<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="facebook私と東映神先頌尚_3"/>。
 
* [[1957年]]、47歳の若さで死去したマキノ光雄に代わり、大川の下、27歳の若さで予算主義を現場で取り仕切る<ref name="秘宝2_276-280"/><ref name="活動屋人生_6-7"/>。天才的な閃きと持ち前の押し出しの強さで難局を切り抜けるその豪腕は<鬼の岡田>と恐れられた。朝の7時半には撮影所に来て、各組のロケ行きを見送り、10時から部屋に閉じこもり、全ての脚本をチェック。ロケに行ったら雨が降ろうと矢が降ろうと、撮ってくるまでは帰ってくるな、雨は照明の当て方次第で消せると指示を出した。雨で中止にしたら1回のロケで100万はすっ飛んだためで、スケジュールも予算もキチンとハメさせ、ヨソが一本4000 - 5000万円かけてるころに、900万で作らせた。撮影中の[[NG]]も2カットに1回しか認めない。当時の東映は、すべての[[経費]]で[[人件費]]がいちばん安く、[[フィルム]]代がいちばん高かったため。こうした<鬼の岡田>の厳格なスケジュール・予算管理が徹底されたからこそ、東映は他社には実現できなかった二本立て興行による地方館の独占に成功した<ref name="死なず_213-214" /><ref name="活動屋人生_6-7"/>。田坂具隆、内田吐夢、伊藤大輔といった巨匠たちも岡田を信頼した<ref name="キネ旬2011071_62-63" />。岡田の前までは、そういうことは大雑把だったという<ref name="キネ旬2011071_62-63"/>。東映の両御大・[[片岡千恵蔵]]、[[市川右太衛門]]の使う黒塗りの[[ハイヤー]]を中止させ、ロケバスに同乗させた<ref name="ごきげん映画人生_165_184-190"/>。
 
* [[俊藤浩滋]]が東映に関わるようになるのは[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]『おそめ』に顔を出していて、この『おそめ』の、みな常連客だった[[鶴田浩二]]の東映移籍や、[[水原茂]]の[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]監督招聘の仲介などで[[大川博]]と縁を深めていったものだが、東映の『映画』をプロデュースするようになったのは、常に映画の題材に窮していた岡田が俊藤に『なにかいい企画はないか』と勧誘したのがきっかけ。酒の席の話半分が、俊藤の鋭く旺盛な企画力に舌を巻いた大川と岡田は考えを改め、東映の外部プロデューサーとして抜擢した。『俺をプロデューサーにしてくれ』と岡田に頼んできたのは俊藤からだという<ref name="波瀾_149" />。40半ばの中年の素人が突然、横道から映画界に入りプロデューサーに納まるという異例中の異例の人事であった<ref name="風雲_125-130" /><ref name="おそめ_269-271" /><ref name="ニッカン20011013web_訃報" />。
 
* [[若山富三郎]]は[[1959年]]、あるルートから、ぜひ使ってくれと直接来たという<ref name="波瀾_104-105" />。[[1960年]]東映に移籍した[[鶴田浩二]]は、第二東映が出来て製作本数が倍増したため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』という岡田からの相談を受けた[[俊藤浩滋]]が、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と移籍の交渉を引き受け『東宝には[[三船敏郎]]がいるから、どうやったって上に行かれへん』などと鶴田を口説いたもので、当時は[[五社協定]](この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の[[藤本真澄]]プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、円満移籍になったという<ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="任侠伝_92-94" />。
 
* [[1961年]]、[[大映]]のアクション時代劇を観た岡田は [[吹き替え]]・[[スタントマン]]の重要性に気づくが、当時の東映の大量生産体制でスタントマンを養成する余裕がないため、手っ取り早く、日本最初のスタントマンともいわれる<ref name="土橋亨" /> [[宍戸大全]]を大映から引き抜く<ref name="土橋亨" />。明るく楽しい時代劇では、いつか観客離れがくると、将来の時代劇アクションという方向性を模索していた。ところが当時は 吹き替え・スタントマンという専門職がまだ確立されていない時代、また宍戸も大映に所属し[[五社協定]]で移籍は不可能であるが、岡田は何のトラブルもなく宍戸を破格の待遇で東映に移籍させた。また100万円をポンと出して諸道具を購入させた。この諸道具は[[1962年]]、大映で[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]主演で『[[忍びの者#映画|忍びの者]]』がシリーズ化されると、諸道具一式と宍戸を込みで大映に貸し出し、一作品当たり50万円(計8本)を請求して充分元を取った<ref name="土橋亨" />。宍戸を引き抜いたものの、間もなく時代劇を終了させ、着流しヤクザ路線へ舵を切るため、宍戸をあまり活かせず、宍戸は[[1967年]]フリーとなる<ref name="土橋亨" />。
 
* 1961年、東京撮影所長に着任し[[高倉健]]や[[鶴田浩二]]ら男性スターの“現代アクション路線”を敷く<ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="秘宝200903_23" />。その配給=ニュー東映の量産体制を担うべく、露骨に日活の『[[小林旭|渡り鳥シリーズ]]』のマネをしろと抜擢したのが深作欣二らだった。深作の監督デビュー作『[[風来坊探偵 赤い谷の惨劇]]』シリーズ、『[[ファンキーハットの快男児]]』シリーズ(共に1961年)は、のちに深作がアクション演出を活かした映画『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』やテレビドラマ『[[キイハンター]]』([[TBSテレビ|TBS]]系、1968年 - 1973年)の先駆けともいえる作品となっている<ref name="深作欣二の軌跡_154" />。
 
* 東映入社後、なかなか芽の出ない[[高倉健]]をスターにしようと[[1962年]]、かつて[[市川崑]]監督が撮って大当たりした[[小島政二郎]]原作の『[[三百六十五夜]]』の再映画化を企画。[[美空ひばり]]を主演にして[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]の[[三人娘]]を総登場させ高倉健、[[鶴田浩二]]を絡ませるというプランを練った。江利に会い「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」と頼むが、江利は「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた。岡田は頭にきて撮影所に帰ると高倉を呼んで「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後、ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけ奮起を促した<ref name="風雲_72-73" />。翌[[1963年]]、岡田が仕掛けた「東映任侠路線」の始まりとなった『[[人生劇場 飛車角]]』でも、宮川役に高倉を抜擢、続いて[[1964年]]、岡田が「[[忠臣蔵]]を下敷きにした群集劇を」と企画し[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]に命じて書かせた『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』シリーズ(-1971年)によって、高倉は任侠映画におけるスターとしての地位を確保した<ref name="クロニクル1_172-175"/><ref name="0東映_任侠・実録"/><ref name="週刊新潮20110519web_弔電だけ" /><ref name="日本俠客伝_22"/><ref name="ポスター_193" />。
 
* [[千葉真一]]は『[[激突! 殺人拳]]』シリーズ、『[[直撃! 地獄拳]]』シリーズが[[欧米]]や[[東南アジア]]で大ヒットしていた頃、岡田に「海外で勝負させてください」と話したら、「ハリウッドを牛耳っている人たちに、ケツの毛まで抜かれて帰ってくるのが関の山だぞ」と反対されたという<ref name="千葉流_242-243" /><ref name="ニッカン20030330web_千葉真一" />。[[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパンアクションクラブ(JAC)]]のことも悩み他の人に引き継いで、全部クリアしてからアメリカ行きを決断したときはもう50歳を過ぎていた<ref name="週刊朝日20110107_70" />。
 
* [[富司純子|藤純子]]は京都撮影所に見学に行ったところを[[マキノ雅弘]]にスカウトされ東映入りしたというのが定説だが、岡田は自著に、高校生の藤がカメラを買いたいと「おそめ」<ref group="注釈">[[俊藤浩滋]]の[[内縁]]の妻・上羽秀が経営していた[[銀座]]の[[バー]]。</ref>にきて[[俊藤浩滋]]にねだっていたのを見初め、映画に出てもらおうとすぐに連絡を取ったと書いている<ref name="悔いなき_155" />。藤純子の当たり役『[[緋牡丹博徒]]』は当時、[[大映]]が[[江波杏子]]で『女賭博師』シリーズをやっていて、なら東映は女の任侠ものをやろう、女剣劇物を書け、と[[鈴木則文]]に命じ始めたもので、当初考えていたタイトルは『女狼』だった<ref name="任侠が青春_126-127" />。藤を想定しての企画のため、藤を口説き「着物を脱いで肌の[[刺青]]を見せなければならないよ」と納得させた上で出演させた<ref name="産経MSN20110511_富司純子"/><ref name="任侠が青春_136" /><ref name="ニッカン20011013web_訃報"/><ref name="キネ旬2011071_45" />。もともと時代劇に緋牡丹物は幾つかはあったが「緋牡丹」と「博徒」という一見つながりのない言葉を紡いで勢いのある題名を考え付いた<ref name="キネ旬2011071_45"/>。「緋牡丹のお竜」という設定も岡田が考えたもの<ref name="メッセージjp20050515_岡田茂"/><ref name="悔いなき_155" /><ref name="任侠が青春_129" />。
 
* [[佐藤純彌]]は1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビューするが、この作品で「昭和四〇年...」という[[字幕]]をたっぷりした墨の筆跡で、[[榊莫山]]みたいな書体で書いたら、試写のあと岡田に「タイトルはお客に伝えるための記号だ。芸術じゃない。のたくった字じゃなく、活字体にしなくてはダメだ」と注意された。この映画のフォース助監督だった[[澤井信一郎]]は、この岡田の一言が[[トラウマ]]になり、澤井は監督になってからの自身の説明タイトルやクレジットは、すべて[[明朝体]]か[[ゴシック体]]にしているという<ref name="映画の呼吸_40_118" />。
 
* [[佐久間良子]]は、いわゆるお嬢様役から180度異なる[[娼婦]]役に岡田に抜擢され代表作とした『[[人生劇場 飛車角]]』や『[[五番町夕霧楼]]』について<ref>日本経済新聞2012年2月11日40面『私の履歴書 佐久間良子⑪』</ref>、岡田や厳しい教えを受けた[[田坂具隆]]監督との出会いがなければ、その後の人生は違った生き方をしていたと思う、と心からの感謝を述べている<ref name="クロニクル1_172-175"/><ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="シネマトゥデイ20110511_葬儀" /><ref name="0東映三十年_125" />。
 
* [[北島三郎]]は、「歌手としてデビューしたばかりの自分を、映画の世界に導いてくれたのが、岡田さんと[[俊藤浩滋]]さんでした。まさに芸の道を開いてくれた恩人です」と話している<ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="スポーツ報知20110510web_見舞い断る" />。
 
* [[1962年]]、映画『王将』で東映作品に初主演した[[村田英雄]]に「[[金剛力士|仁王]]の[[刺青]]を入れろ」と言ったら村田は「勘弁してくださいよ」と及び腰だったが承諾させた<ref name="悔いなき_137" />。
 
* [[三田佳子]]は『岡田さんとの出会いが女優としての立場を確立した』と話している<ref name="スポーツ報知20110510web_菅原文太" /><ref name="産経MSN20110511_菅原文太" />。
 
* [[北大路欣也]]と[[松方弘樹]]は、高校卒業の祝いで、一杯酒を飲ませて東映に入れと口説いた。松方は「お任せします」と了承したが、北大路は「大学へ行って演劇論をやりたい」と渋るので、「大学に行きながらでもいいから」と了承させ、北大路は現代劇で、松方は時代劇でどんどん使った。ところが大映の[[勝新太郎]]が松方を気に入って可愛がり、毎晩飲みに連れ歩き、悪い遊びを教えて[[大映]]に引き抜こうとした。引き抜きは阻止したが、松方は1969年から1970年に数本、[[大映]]で主演作品がある<ref name="波瀾_188-190"/><ref name="NEWS24_20110510_思い出"/>。
 
* 1964年、[[石井輝男]]に撮らせた『御金蔵破り』は、[[フィルム・ノワール]]『[[地下室のメロディー]]』からアイデアを頂いた時代劇<ref name="完本石井輝男_144-146"/>。[[ジャン・ギャバン]]を[[片岡千恵蔵]]、[[アラン・ドロン]]を[[大川橋蔵]]のイメージに見立て、それに当時の大川橋蔵・[[朝丘雪路]]のスキャンダルをのせた<ref name="石井輝男_134-136_315" />。1968年の[[工藤栄一]]監督、岡田の企画『産業スパイ』は、当時、産業スパイが流行っていたため<ref name="光と影_149" />。
 
* [[高田宏治]]は1964年ごろ、岡田に「面白い時代劇のアイデアを書いて持って来い」と言われて持って行った。その頃、ストーリーにアイデア、アイデアと、そればっかり考えていて、その[[プロット]]は、ガリレオという主人公が、[[伴天連]]の[[妖術]]師で、突然、牛のお化けになって、船底でその牛の首だけが[[ウジ|ウジ虫]]だらけになってギラッと目を剥いたとか、木の上から[[小便]]をかけたら、それが黄金のかたまりになって降ってきたとか、荒唐無稽な奇抜なアイデアの羅列だった。すると読んでいる途中で、岡田が耳をふさいでしまい「もういい、あいつは気が狂っとるからもう使うな」とその後は干されてしまったという<ref name="高田宏治_10-11" />。高田は「東映の場合はまあ(企画は)岡田さんのひとことがあれば決まる」と話している<ref name="高田宏治_186" />。[[小沢茂弘]]も、映画の企画タイトルに名前は出ていなくても、岡田はもう全ての実権を持っていたと話している<ref name="困った_79" />。俊藤浩滋は「任侠映画が隆盛のころは、岡田所長と私の新しい企画の相談は「こんなのはどうや」「おもろいな。それ、いこうか」といった調子で15分か20分で決まった。岡田は私を信頼してくれた」「岡田が出した企画を会議で反対する者なんかいなかった」と話している<ref name="任侠伝_165" />。
 
* [[1964年]]、大川の命で京撮のリストラ対策に京撮所長に再び戻る。「日本で最低の撮影所」ともいわれた[[東映東京撮影所]]を『[[人生劇場 飛車角]]』などで甦らせたばかりであったため、[[鶴田浩二]]などは「ここまでやって来たのにあんたが行ってしまってどうするんだ」と、一晩中泣いていたという<ref name="沢島忠全仕事_249" />。京撮所長時代の大リストラではかなり手荒い事をした。“一つの映画のブームは10年”という考えを持ち、「時代劇はやめだ。撤廃する」と早いうちに決断し[[片岡千恵蔵]]や[[市川右太衛門]]、[[月形龍之介]]以下、時代劇俳優・監督みんなに辞めてもらう<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="風雲_83-88_104-125"/><ref name="沢島忠全仕事_249"/><ref name="死なず_28" />。千恵蔵や右太衛門がまだ絶大なる力を持っている時代で困難を極めた<ref name="昭和の劇_1-4" /><ref name="映像のスリット_185-186" />。時代劇の巨匠・[[松田定次]]を潰すため、その弟子、[[平山亨]]らの作った作品の試写に現れ、ケチョンケチョンに貶した。いたたまれなくなり、その場にいた者は次々に立ち去ったという<ref name="秘宝200710_XX" />。当時東映には、三つの労働組合があり、連携して共産党の府会議員とも結託、若手俳優も含めて全員署名捺印するなどして抵抗したが、岡田の色々なパターンによる巧妙な脅し、組合潰しで旗を巻いた<ref name="品川隆二と近衛十四郎_74-77" />。切られた側の松田定次や[[東千代之介]]などからは「岡田だけは許せない」などと批判されるが、今日東映が生き残れたのは岡田の功績とする見方もある<ref name="品川隆二と近衛十四郎_74-77"/><ref name="悔いなき_272" />。
 
* 平山が手掛けた『[[がんばれ!!ロボコン]]』(1974年 - 1977年)のアイデアは『[[柔道一直線]]』(1969年 - 1971年)をやっている最中に受けた岡田からの叱責がきっかけ<ref>[http://riderproducer.blog.fc2.com/blog-date-201204-1.html 泣き虫プロデューサーの「いいから、俺にしゃべらせろ!」 201204]</ref>。『柔道一直線』は「[[スポ根]]ドラマ」の端緒ともいわれる名作だが、30%を超える[[視聴率]]を挙げ大ブームを起こしている時、東映の全体会議で平山の上司が「『柔道一直線』はやればやるほど赤字が増えとる。やめてしまえ」と岡田に言われたという。敬愛する岡田に怒られた平山は大きなショックを受けた。『柔道一直線』は柔道大会のたびに雇っていた[[エキストラ]]費が膨大にかかり赤字になっていた。『[[ジャイアントロボ]]』(1967年 - 1968年)の時も好評で局は延長しようとしたが、岡田が赤字を問題視し延長を断ったとされる。その後、平山は[[東映アニメーション|東映動画]]の田宮武から、「『[[魔法使いサリー]]』の製作費は赤字だが[[キャラクター商品]]が売れるので全体では黒字になっている」「『柔道一直線』が黒字にならないのは[[実写]]だから。実写はキャラクター商品にならない」と聞き、「それじゃあ、一条直弥を可愛い[[ロボット]]がやればいい」と思いつき「[[スポ根]]」に対して「ロボ根」という発想につながった」という<ref name="東映ヒーロー名人列伝_138-142" />。
 
* 『[[イナズマンF]]』の20話「蝶とギロチン花地獄作戦」の初号試写を見た時「学生映画なんか作ってるんじゃない!」と怒ったという。
 
* [[藤山寛美]]が[[1966年]]、負債を抱えて自己破産し松竹をクビになったとき、「岡田に助けてくれ」と泣きついてきたので、しばらく東映にいさせた<ref name="悔いなき_251-252"/>。寛美がこの頃、東映の[[任侠映画]]に出ているのはこのため。
 
* [[中島貞夫]]の出世作『893愚連隊』(1966年)、オールスターキャスト『[[あゝ同期の桜]]』(1967年)は、任侠映画全盛で、製作が難しい企画だったが『893愚連隊』は、岡田が企画を通してくれたもので<ref name="facebook私と東映中島貞夫_3" /><ref name="キネ旬2011071_60" />、『[[あゝ同期の桜]]』(1967年) も、大川社長は猛反対したが、俊藤が「岡田さんを巻き込めば出来る」と企画を通してくれたものという<ref name="毎日新聞20110518_11"/>。『あゝ同期の桜』は、色んな部署から[[編集]]で「ここを切れ、あそこを切れ」という声が出て中島は「監督やめる」と啖呵を切ったが、結局岡田に説得され、ラストシーンだけは残すという妥協案で決着したという<ref name="岡田茂追悼_中島トーク1" />。
 
* [[安藤昇]]と仲がよく、安藤が弟分の[[菅原文太]]ともども[[松竹]]に合わないと相談に来たので、「しばらく東映におれよ」と、そのまま菅原は東映に移籍したもの<ref name="波瀾_219-223"/>。安藤も東映を中心に出演するが専属ではなかったという<ref name="ヤクザが認めた_6" />。
 
* 映画の撮影前には監督がスタッフ・キャストを集めて、岡田がダメ出しする何ヵ条を読み上げる。「岡田社長から言われました。面白いけど、こういうところは気を付けろっていう8ヵ条ありますから読み上げます」ってどもりながら。「ああ、おう。だから?」って聞くと、「いや、別にみんなは気にしてもらわなくていいです」と言ったという<ref name="男気_20" />。
 
* 1968年、[[山下耕作]]監督、[[笠原和夫 (脚本家)|笠原和夫]]脚本、[[鶴田浩二]]主演の『[[博奕打ち 総長賭博]]』は、ヤクザの女房が手首を切って自害するシーンなどがあって、正月作品としては入りが伸びなかった。岡田は山下と笠原を呼びつけ「おまえら、ゲージツみたいなもん作ったらあかんで!」と一喝した。ところが1年ほどして[[三島由紀夫]]が『映画芸術』同年3月号誌上で絶賛の一文を発表し、急に世間の風向きが変わりその後、多くの文化人がこの映画を賞賛し、今日では東映ヤクザ映画の傑作と評価されている<ref name="鎧_160-168" />。
 
* [[三島由紀夫]]とは任侠映画を通じて深い付き合いがあったという。三島は任侠映画のファンで、よく試写室に来ていた。「岡田さん、役者としてオレ出ようか」と出たがっていたが「やめといた方がいいよ」と止めたという<ref name="任侠が青春_9" />。
 
* 東京撮影所所長時代、[[梅宮辰夫]]を売り出すために考えたのが『[[不良番長]]』シリーズ(1968年-1972年)。これも[[マーロン・ブランド]]の代表作『[[乱暴者]]』([[1953年]])をパクッたもので『不良番長』という題名も岡田が考えた<ref name="Hotwax7_120-121_135" />。シリーズ中、5作を監督した[[内藤誠]]は、岡田に「[[ロジャー・コーマン]]の『ワイルド・エンジェル』で映画をやるから観て来い」と言われ、脚本の[[野田幸男]]と一緒に観に行ったという<ref name="0東映キネマ旬報_2"/>。内藤は当時がもうコーマンばかり観て『白昼の幻想』を観て[[ヒッピー]]文化を研究し『不良番長 出たとこ勝負』(1970年)で「同じように[[暴走族]]を100台集めてバイクの集団を走らせた。映画の撮影なのでルールを守って走りましょうと言ったが、誰も守ってくれず、あれで初めて[[パトカー]]に連行された」と話している<ref name="ピンキー_109-110" />。
 
* このシリーズのプロデューサー・吉田達は、東京撮影所の作品が全然当らないので、岡田が京都からテコ入れに来ると、朝早くから岡田が撮影所の玄関前で演説を始めて、アジテーターで演説が上手く、“みんなで作ろうヒット作”と全員が乗せられ元気になったという。「あの人に扱き使われてもまったく疲れなかった。僕は現在でも尊敬してます」と話している<ref name="Hotwax7_135" /><ref name="ANPA200404_吉田達" />。なお『不良番長』シリーズは、岡田には「よう出来た、オモロイなー!」と手を叩いて喜んでもらえたが、他の重役や良識を持ったスタッフからは嫌がられ、[[俊藤浩滋]]には「“不良番長”なんか作ってたらロクなプロデューサーにならないぞ!」と言われたという<ref name="Hotwax7_137" />。
 
* [[1969年]]の十月大作『[[日本暗殺秘録]]』は、岡田が「明治以来の暗殺事件を網羅せよ」と、側近の渡邊達人と[[天尾完次]]に命じて始まった企画<ref name="私の30年_149" />。渡邊が[[血盟団事件]]で[[井上準之助]]を暗殺した小沼正の訊問調書を探し出したのでこれが中心に据えられている<ref name="私の30年_149" />。監督の中島貞夫が同じ年の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』を当てたので、岡田に次は「“[[テロリズム|テロ]]”をやらせてください」って頼んだ、と話しているため<ref name="facebook私と東映中島貞夫_3"/>、企画・製作・脚本・監督の流れは、中島→岡田→渡邊→笠原・中島→中島の順と思われる。製作にクレジットされている大川は最終的な了承のみと考えられる。
 
* 25歳まで[[広告代理店]]で[[サラリーマン]]をやっていた[[渡瀬恒彦]]が1969年、映画界入りしたきっかけは、人を介して岡田に会ったことで、チャーミングで、何とも理知的な岡田に、一瞬にして心が動き「こういう人がいる世界なら、一緒にやってみたい」と即決したという<ref name="BIGtomorrow200910_52"/><ref name="0東映_渡瀬恒彦"/>。
 
* [[1969年]]、[[こむら返り]]の病気で苦しむ[[マキノ雅弘]]を日活に売り飛ばす(マキノ談<ref name="マキノ雅弘自伝地_432-433" />)。マキノは1971年、岡田が社長になったから東映を辞めたと自伝に書いている<ref name="マキノ雅弘自伝地_447" />。[[小沢茂弘]]を「君には徳がない」とクビにし小沢は業界から離れ、その後[[易者]]や[[山伏]]などをした。「東映とともに生き、東映に捨てられた」と小沢は話すが、ただ小沢の場合は、自身で「ワシは困った奴ちゃなんです」と言っているし、まわりの人たちからも嫌われていたためやむを得ない面がある。小沢は東横映画時代からの長い付き合いで、大川博の後継問題で揉めた時も「岡田茂を激励する会」を作るなど自著でも岡田は仲間と話し岡田に感謝の言葉を述べている<ref name="困った_7_18_21他" />。
 
* [[1970年]]頃、同郷で中学の後輩、[[カルビー]]社長・[[松尾孝]]が常務時代の岡田を訪ねて来て、[[スポンサー]]になれるいい作品はないか、というので、営業の天才と評価していた[[渡邊亮徳]]が「今度の[[毎日放送]]の新企画は絶対当たります。わたしが言うんだから間違いない。どこかいいスポンサーはないでしょうか」と自信満々に話していた『[[仮面ライダー]]』を松尾に薦めた。カルビーの手掛けた[[仮面ライダースナック]]は社会現象になった<ref name="日本ヒーロー_19-20_29-30" />。『仮面ライダー』は「[[第二次怪獣ブーム|変身ブーム]]」を巻き起こして「仮面ライダー変身ベルト」など、キャラクター商品も大ヒットし東映に膨大な利益をもたらし「テレビがこんなにお金になることを初めて知った」と岡田に言わしめたという<ref>[[テレビブロス]]2012年6月23日号、p8</ref>。
 
* [[高倉健]]は1970年「[[ヤクザ映画]]で儲けさせるかわりに、自分の好きな映画を作る自由を認めろ」と高倉プロの設立を要求。大川社長はそれを一応、了解したが岡田が社長に代わるとそれを白紙に戻した<ref name="サンデー毎日19721210_26-29" />。それを認めれば利益は減るし、ほかのスターにシメシがつかない<ref name="サンデー毎日19721210_26-29"/><ref name="サンデー毎日19721210_27" />。1972年11月、高倉は黙って海外旅行に行ってしまうと、マスコミは“高倉健蒸発”“仕事を放り出して蒸発することで高倉プロを認めさせる最後の手段に出た”などと書き立て大騒ぎとなった。旅行から帰国し「僕はそんな手段を使って会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と話したが、特に1973年から始まった『仁義なき戦い』が当たり、若手俳優や大部屋俳優を大挙起用するようになると岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらくやめや」と言い出し、任侠映画の功労者及び、二人に近かった俊藤と確執が生じた(俊藤とは和解)<ref name="任侠伝_224-232" />。この後高倉と東映との関係は悪化し、高倉は東映の映画に出たがらなくなり1976年、東映を退社することになる<ref name="サンデー毎日19721210_26-29"/><ref name="サイゾー201106_健さん"/><ref name="サンデー毎日19721210_26-29"/><ref name="サンデー毎日19741112_50" /><ref name="ZAKZAK20110511_通夜" /><ref name="ZAKZAK20110510_仁義" /><ref name="週刊文春20100526web_53" />。
<!--大仰に書いているが内輪の構想段階でつぶれたプロジェクトの裏話にしか読めない*[[1982年]]に『[[海峡 (映画)|海峡]]』というタイトルで[[青函トンネル]]を題材にした映画が東宝で作られたが、これ以前の[[1979年]]頃、[[菅原文太]]が[[愛知和男]]の選挙の応援の帰りの汽車の中で、[[竹下登]]と愛知と話し、田中角栄の発案で[[日本鉄道建設公団|鉄建公団]]が建設中の青函トンネルを映画化したらどうだろう、という話が出て、菅原が俊藤に相談、俊藤が岡田に聞くと「面白いかもわからんな」と岡田が田中角栄にコンタクトを取り、岡田と俊藤、菅原、愛知の4人で田中に会いに行くと田中は大喜びで、すぐその場で鉄建公団の[[川島廣守]]総裁に電話をかけて一発OKとなった。しかし[[黒部ダム]]のようなドラマチックな話がないため脚本が難しく困っていると『[[太陽を盗んだ男]]』の関係から、菅原が[[長谷川和彦]]を推薦するから、俊藤は若い感性による斬新な切り口での人間ドラマを期待し、長谷川にいっぱい金を渡して[[北海道]]に取材旅行に行かせたら、長谷川は飲み食いで金を全て使い切った挙句、「[[竜飛岬]]に[[UFO]]が降りてくる」という脚本を持って行って俊藤が激怒、結局この企画は頓挫した<ref>『任侠映画伝』、p236-238</ref>。-->
 
* [[テレビドラマ]]『[[長谷川伸シリーズ]]』をやっていた頃、[[俊藤浩滋]]の全盛時代で、俊藤のグループ(オスカープロ)がギャラのアップを要求し、実力者の[[山下耕作]]に協力を求めた。「岡田茂と俊藤浩滋のどっちにつくんだ」と。これに山下は「俺を採用してくれたのは岡田さん」「現場にやってくれた(監督になるきっかけ)のも岡田さん。俺は絶対岡田茂を選ぶ」と[[高岩淡]]にいった。後日岡田に会ったら「あっ、山下さん。去年はいろいろ御苦労さんでした」と初めて「山下“さん”」と言われたという。大川博が逝去して岡田が社長になったのは、下の使われる側の支持で、「岡田のまあ人徳と言えば人徳かもしれない」「おまけに東京帝大出っていうのは一目置かれたんじゃないか。すいすい追い越されて行っても文句言う奴誰もいなかった」と話している<ref name="将軍と_82_185" />。
 
* [[1973年]]、東映の企画で黒崎出版から発行されていた『[[テレビランド]]』を編集スタッフごと[[徳間書店]]に移したが、これを[[徳間康快]]社長と二人で[[銀座]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]で決めた<ref name="三流週刊誌_295-296"/>。徳間書店の『テレビランド』刊行は、同社のイメージをガラリと変えるキッカケを創り、東映作品とのタイアップ雑誌としての側面を持つことで、その後の『[[アニメージュ]]』創刊、[[宮崎駿]]([[スタジオジブリ]])等へと展開していく足がかりとなった<ref name="三流週刊誌_295-296"/>。徳間が活字(出版、[[東京タイムズ]])、オーディオ(音楽、[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|徳間ジャパン]])文化に続いて、映像(映画)文化に進出する際、1974年[[大映]]を買収したい、と相談を持ち掛けたのが岡田であった<ref name="龍になった男_151" />。
 
* [[富司純子|藤純子]]は約10年間の東映専属で“任侠映画の花”として一世を風靡、90本の映画に出演し[[1972年]]、[[歌舞伎]]俳優の[[尾上菊五郎 (7代目)|尾上菊五郎]]と結婚し引退を表明した。俊藤が説得しても聞かないので、岡田も説得したが藤は頑なで諦めざるを得なかった。ただ映画は引退だがテレビのCMはそのまま残った。これはイメージダウンどころか、歌舞伎役者との結婚でむしろイメージアップだったため<ref name="サンデー毎日19720319_44" />。看板スターの女優として脂が乗っていた時期の衝撃の引退でアタフタしたが、引退興行に当時としては破格の宣伝予算を組んで元を取ろうとした。挙式3ヵ月前に封切られた『緋牡丹博徒シリーズ』第8作『緋牡丹博徒 仁義通します』では、当時邦画ではめったになかった都内の[[私鉄|私鉄電車]]の[[中吊り広告]]や、普段付き合いのない[[週刊誌]]まで広告を出した。藤は新しい企画には出ないとこちらも頑なであったが、引退記念映画の製作を俊藤に断固要求し藤を説得<ref name="任侠伝_166_164" />、製作・宣伝費に約2億円と当時の映画としては破格の予算をかけ、東映オールスター結集による引退記念映画『関東緋桜一家』を製作。これを藤の挙式直前に封切った。『関東緋桜一家』は最後の藤純子を見ようと映画館に観客が詰めかけ正月興行を上回る盛況で引退フィーバーに沸いた。しかし藤純子のフィナーレとともに任侠路線も終焉を迎えた<ref name="悔いなき_177" /><ref name="九スポ20070704_18" />。藤純子引退の後、すぐに“ポスト藤純子”探しを始めた<ref name="任侠伝_165" />。[[トヨタ]]と[[タイアップ]]し賞品付きで藤の後継者を一般募集した。映画館のロビーに「ポスト藤純子ご推薦ください、合格者は100万円、推薦者には[[トヨタ・セリカ|セリカ]]を進呈」というポスターを張り出した。<!--合格したのは[[中村英子]]だったとされるが、中村は俊藤がスカウトしたとされるため、一般の本当の新人を募集したのかは不明。これでは「Wikipedia発の都市伝説」-->この後『緋ぢりめん博徒』に出演した中村英子、[[藤宏子|藤浩子]]、[[土田早苗]]、[[堀越陽子|堀越光恵]]、[[松平純子]]、[[池玲子]]の6人を和服の似合う美人に仕立てあげ、“ポスト藤純子”として順繰り売り出したが、時代が任侠映画を求めておらず、中村は元を取る前2年で結婚引退。藤、土田、堀越はテレビに、松平は歌手に、池は別路線に転身した。
 
* ただ[[日活ロマンポルノ|ポルノにシフト]]した[[日活]]を辞めてフリーになった[[梶芽衣子]]は、“ポスト藤純子”として東映が呼んで、任侠路線ではなく別路線の『[[女囚さそりシリーズ]]』(1972-1973年)でスターになった<ref name="秘宝2_259-262" /><ref name="ピンキー_1_11_27" /><ref name="サンデー毎日19720319_44" /><ref name="サンデー毎日19730316_42" /><ref name="サンデー毎日19730923_46" /><ref name="サンデー毎日19731209_38" /><ref name="サンデー毎日19740203_36" /><ref name="週刊サンケイ19740627_26" /><ref name="週刊朝日19740517_37-38" />。『[[女囚701号/さそり]]』(1972年)は大ヒットし、東映は当然、これをシリーズ化しようとした。ところが当時梶は結婚を決めた人がいて、この作品を最後に芸能界を引退し専業主婦となる決意を固めていて、続編の出演は断固として拒否した。やむなく岡田が説得に乗り出し「あと一作だけ」の条件で続編の出演に応じさせた。シリーズ2作目の『[[女囚さそり 第41雑居房]]』(1972年)も大ヒットに及ぶと、今度は[[俊藤浩滋]]が説得に出てきて結局、第4作まで制作が続けられた。こうして女優業に没頭していくうち、「このまま引退し、専業主婦になって後悔しないだろうか」という疑念が大きくなり、婚約を解消し女優業を続けることにしたという<ref name="東スポ201106梶芽衣子" />。岡田や俊藤の説得がなければ『[[女囚さそりシリーズ]]』は、シリーズ化しなかった可能性があったのは勿論、梶の女優としてのキャリアもここで終了していた可能性もあった。また、梶は、「女囚のイメージがずっとついて、女優としてやってゆくのは大変」と岡田に相談したら「梶君、これは自信持っていいよ。映画は多くさんのお客さんに観て頂いてヒットした映画が傑作であり名作なんだよ」と言われた事をずっと励みと誇りにして来ました。生涯娯楽作品に挑みたい、等と話している<ref name="梶芽衣子公式_女をやめたい4" />。
 
* この他、当時高校三年生だった[[檀ふみ]]も“ポスト藤純子”と騒がれ東映入りした。壇は[[高岩淡]]の姪にあたる。壇は藤純子のキャラクターとは違うが、浪人中に[[NHK総合テレビジョン|NHK]]から声がかかり『[[連想ゲーム]]』のレギュラー解答者に登場、お茶の間のアイドルになった<ref name="週刊サンケイ19721126_38-39" /><ref name="週刊サンケイ19790315_32_36" />。
 
* [[1976年]]の[[牧口雄二]]監督『戦後猟奇犯罪史』も、当時凄い人気だった『[[テレビ三面記事 ウィークエンダー|ウイークエンダー]]』(日本テレビ)の便乗企画<ref name="女獄門帖_44" />。最初は[[松竹映画]]『[[復讐するは我にあり]]』より先に「[[西口彰事件]]」を取り上げた第一話と、第三話「[[大久保清事件]]」の二話構成だったが、撮影2日前に「[[克美茂愛人絞殺事件]]」が発生し、岡田が「この事件も入れろ」と命令し無理やり三話構成になった<ref name="ピンキー_201" />。[[泉ピン子]]を[[レポーター]]役で出演させ[[ワイドショー]]構成としたが、非常に無茶苦茶な作りとなった<ref name="女獄門帖_44"/>。
 
* この頃の東映を[[パロディ]]にしたくて山城新伍が作ったのが[[1980年]]の『ミスターどん兵衛』という映画。原作料の話をしたら岡田は「そんなもん、パクれ!」「東映の作品見てみろ!『[[網走番外地]]』は『手錠のままの脱獄』(1958年)の[[盗作|パクり]]だ!原作料もヘッタクレもねぇ、パクれ!」と言った。このネタを使ったのが『ミスターどん兵衛』の中の会議のシーンで「『ラムの大通り』(1971年)っていう良い映画があるので、それをパクって『焼酎の裏通り』ってのはどうですか?」って言うと、会長役が「うーん、精神はそれでええな」というシーンという<ref name="男気_17" /><ref name="濃厚_66" />。山城は岡田を評して「毒気そのもの。もう吹いて吹いて吹きまくりというか、[[永田雅一]]さん以上の吹き屋でしたね。製作課長時代からこの人社長じゃないか、と錯覚さすような大きな事言ってました。俺がいなけりゃこの会社すぐポシャる、みたいな事で..」「時々違う方向に行くんで困る。どうかするとこの人、映画嫌いじゃないか、と思う時ありますよ」と話していた<ref name="キネ旬ベスト下_84" />。
 
* [[丹波哲郎]]から「あんな豪快な奴はいない。とにかく傑物」と言わせた人物<ref name="好きなヤツ_136-146"/>。無類の女好きで丹波のマネージャーにも手を出したという。京都撮影所所長時代に一緒に昼飯を喰うと、映画の話はまったく無くひたすら猥談オンリーだった。しかしこれは昼飯どきまで映画の話をしてはいけない、という岡田の見識だったという。岡田を通じて東映にも親しみを持つことが出来たと語っている<ref name="好きなヤツ_136-146"/><ref name="ニッカン20110509web_気配り" />。ゴルフコンペで大川博の取り巻きの重役連中が、大川にオベッカばかりしている時に、岡田は媚びるどころかそっぽを向いているのを見て、丹波は岡田を認めたという<ref name="好きなヤツ_136-146"/>。また丹波が親しかった元東宝副社長・[[藤本真澄]]と岡田の三人で、外人女性を揃えたキャバレーに行った時、岡田は外人女性に向かって「おい、そこの[[ポルノ]]の国から来たの」などと言い非常に嫌われた<ref name="好きなヤツ_136-146"/>。藤本は東映の社長になる前の岡田に「東宝に来ないか」と誘っていたという<ref name="神を放った_139" />。
 
* [[山下耕作]]が撮った[[1974年]]の『あゝ決戦航空隊』は、[[児玉誉士夫]]が試写に来て感激し廊下に出たらドドドと引っ繰り返った。「これは国民必見の映画だ。すぐ全テレビで全国放映して国民に見せにゃいけん」と言ったという。すると山下入社時の総務課長がほうぼうで「この監督の山下君を僕が採用したんです」と吹いた。岡田は「俺が採用したんだ。みんな反対したんだぞ」と歯ぎしりした。しかしこの映画もまもなく[[ロッキード事件]]でペシャンコになった<ref name="将軍と_162" />。
 
* 1974年の[[NHK大河ドラマ]]『[[勝海舟 (NHK大河ドラマ)|勝海舟]]』で急病を患った主演[[渡哲也]]の代役が[[松方弘樹]]だった。渡の突然の降板に次の代役が決まらず、[[倉本聰]]が岡田に直談判して松方に決まった<ref name="愚者の旅_84-93" />。松方は渡哲也・[[渡瀬恒彦|恒彦]]兄弟と付き合いがあり受けるか迷ったが、最終的にNHKと松方、岡田との三者会談が行われ、岡田に「やれよ」と言われ代役を受けるハラを決めたという<ref name="サンデー毎日19740303_35" />。しかし『勝海舟』は、神経質でひ弱な海舟が出来あがり結果的に不人気で、松方も放送終了後「NHKはくだらん」と発言したりでトラブルが多かった<ref name="サンデー毎日19741229_34" /><ref name="愚者の旅_84-93" />。松方が[[仁科亜季子|仁科明子]]と恋仲になるのは、このドラマで夫婦役をやってからだが、松方は当時既婚者で、仁科の父・[[岩井半四郎 (10代目)|岩井半四郎]]が激怒し、マスコミを賑わせた。ドラマの評価は芳しくなかったが、彼らの知名度は飛躍的に上げた<ref name="松方弘樹公式_岡田茂" />。また倉本聰は週刊誌の記事を巡ってドラマのスタッフとこじれ、北海道へ飛び、そのまま北海道に転居。この後は北海道を舞台とした多くのドラマ手掛けることになる<ref name="愚者の旅_84-93" /><ref>[http://r25.yahoo.co.jp/interview/detail/?id=20100121-00001128-r25&page=3&order=54 倉本 聰 | web R25]</ref>。
 
* 1974年、[[山口百恵]]が主演した東宝『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』の成功で東宝、松竹は人気歌手を主演させる映画を増やした<ref name="週刊朝日19750815_38-41" />。翌[[1975年]]の[[ゴールデンウイーク]]は、東宝が山口百恵の『[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]』、松竹が[[桜田淳子]]の『スプーン一杯の幸せ』、そして東映は菅原文太の『[[県警対組織暴力]]』。ゴールデンウイーク初日の4月26日には、山口百恵、桜田淳子、菅原文太が、それぞれ都心の劇場で派手な動員合戦を展開したが、最終的な興行成績は『県警対組織暴力』がトップであったとされる<ref name="秘宝201012_101"/><ref name="サンデー毎日19750518_44" />。なお『潮騒』の併映は[[和田アキ子]]の『お姐さんお手やわらかに』『スプーン一杯の幸せ』の併映は[[中村雅俊]]の『思い出のかたすみに』で、『県警対組織暴力』の併映が[[志穂美悦子]]主演の『華麗なる追跡』。志穂美が非常に人気を呼んだこと、またアイドル・ブームの世の流れから、東映は若いファンの開拓を目指し“青春路線”に取り組んだ。岡田は「今年から二本立ての1本は19歳以下の若者を対象にしていく」と話した<ref name="秘宝201012_101"/>。その第1作が[[渡瀬恒彦]]、[[伊吹吾郎]]以来、自信を持って送り出した新人・[[星正人]]主演の『青春賛歌・暴力学園大革命』であった。内容は『[[愛と誠]]』に似ていた<ref name="秘宝201012_101"/>。
 
* 1974年、[[アメリカ]]の[[ワーナー・ブラザース]]が[[ロバート・ミッチャム]]、[[高倉健]]主演、[[シドニー・ポラック]]監督で映画化した『[[ザ・ヤクザ]]』は、[[東映京都撮影所|東映の京都撮影所]]で製作されたが、ワーナーから高額なレンタル料をふんだくった。ワーナーは「日本のエコノミック商法は“[[神風特攻隊|カミカゼ]]”なみだ。日本映画界の仁義ってそんなものか」と憤慨していたという<ref name="週刊サンケイ19741020_39" />。この映画の[[エグゼクティブ・プロデューサー]]は俊藤浩滋であるが、監督のシドニー・ポラックが日本人を馬鹿にして、[[ポール・シュレイダー]]が脚本で書いていた仁義や義理といった日本的形式を全部追いやり[[メロドラマ]]にした。ポラックと俊藤は終始仲が悪く、すったもんだのあげく映画は完成。岡田の判断で配給は東映で行った<ref name="任侠伝_142-144" />。
 
* [[アラン・ドロン]]主演の『[[ル・ジタン]]』(1975年)は、「ドロンは日本じゃ当たるといってもお巡りさんとか、体制派になったら当たらないから、体制側の主人公でない、アクションにせい!」と買い付けたものだが、ドロン映画はこの辺りからヒットしなくなった<ref name="ロードショー197603_196-199"/>。『[[地獄の黙示録]]』(1979年)も[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]で買おうとしたが、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド]]が相当金を出して落としたという<ref name="ロードショー197603_196-199"/>。
 
* [[荒川博]]の養子で、暴漢事件で有名な[[荒川尭]]が[[1975年]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]を引退すると荒川を銀座に連れて行き、契約金3000万円で俳優にスカウト。[[岡田茉莉子]]や[[宮園純子]]など綺麗どころの女優を同席させ口説いたが、興行師の息子で[[美空ひばり]]にも可愛がられ、芸能人の友達も一杯いた荒川にはあまり効かず、断られてしまった<ref name="プロ野球タブー_112" />。
 
* 1975年に開村した[[東映太秦映画村]]は、任侠ものが下火になって次代への転換が厳しく迫られていた1972年頃、会議の雑談の中で「台湾の撮影所が現場を有料で一般公開し、大成功している、京都でもその辺の事を真剣に考えたらどうだ」という岡田の話から計画がスタートしたもの<ref name="映画村10年_82-83"/>。
 
* [[舘ひろし]]は[[1976年]]、[[松田優作]]と共演した『[[暴力教室]]』で映画デビューするが、岡田に「君が舘くんか。頑張れよ。すぐ君の主演作を作ろう」と声を掛けられたのを機に、[[石原プロモーション]]に入社するまでは東映に籍を置いたという<ref name="スポニチ20110611_26" />。
 
* [[1977年]]、テレビ放映では商業的に失敗に終わり、どこの映画会社も断った[[西崎義展]]が持ち込んだ劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト#劇場版|宇宙戦艦ヤマト]]』を買い付け大ヒット。続編の『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』など、一連の[[宇宙戦艦ヤマト#宇宙戦艦ヤマトシリーズ|宇宙戦艦ヤマトシリーズ]]を手がけた他、『[[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]]』などの[[松本零士]]作品をアニメ化、映画化して大きな収益を上げた。これらが興した松本零士ブーム、[[サイエンス・フィクション|SF]]ブーム、アニメブームにも貢献した。西崎は「岡田さんは商売が上手いから、1年の半分はヤマトやって、あとの半分は自分のところの作品を作って、うまく人を回してもうけた」と話していたという<ref name="日経BP20060203_岡田茂"/><ref name="朝日新聞20100412web_ヤマトは文芸もの"/>。
 
* 1977年、日活を辞めた[[黒澤満 (映画プロデューサー)|黒澤満]]に「黒澤、今、何やってんだ?」と声をかけ「今は浪人してます」「それじゃ東映来て好きなことやれ」と[[東映ビデオ]]の製作部門の長として引き抜き<ref name="活動屋人生_213-223"/>、黒澤が日活出身のスタッフらとともに東映セントラルフィルム(配給会社)の中に、映画の企画と制作を始めたのが[[セントラルアーツ]]の始まり<ref name="クロニクル2_1-8"/><ref name="キネ旬映画40年_15"/><ref name="秘宝201012_39-46" /><ref name="moment_仙元誠三" /><ref name="シネマヴェーラ_20090207" /><ref name="キネ旬1979012_97"/><ref name="活動屋人生_213-223"/><ref>[http://www.dgj.or.jp/feature/article/000182.html トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」 - 日本映画監督協会] </ref>。黒澤は[[松田優作]]の[[マネジメント]]に近いことをやっていたため、『[[最も危険な遊戯]]』から始まる[[遊戯シリーズ]]や、『[[野獣死すべし (1980年の映画)|野獣死すべし]]』『ドラマ[[探偵物語]]』など、一連の松田優作作品や、[[舘ひろし]]の『革ジャン反抗族』などの暴走族映画、『[[あぶない刑事]]』シリーズ、『[[ビー・バップ・ハイスクール (1985年の映画)|ビー・バップ・ハイスクール]]』シリーズ、『[[Wの悲劇]]』、[[それから]]、[[長渕剛]]の『オルゴール (映画)|オルゴール』などがここで制作された。黒澤には一見まかせているようで全部岡田が指示してやらせたという<ref name="活動屋人生_234-245"/>。
 
* 1977年の映画『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所#実写作品|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』は、漫画の連載翌年に初めて実写映像化されたもので、主演の[[両津勘吉]]を[[せんだみつお]]が演じた。岡田は撮影現場まで来て、記者の前でせんだの肩を叩き「これからは[[男はつらいよ|寅さん]]に負けないような(長期シリーズ)に」と言っていたが、シリーズ化はされず1本で終わった。理由は不明。またビデオソフト化もされていないこともあって非常に知名度も低いが、ビデオソフト化されないのは、原作者が「ノー」と言っているからとせんだは話している<ref name="人間コク宝2_55" />。
* [[1978年]]から始まった[[日本アカデミー賞]]は当時、[[電通]]開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの<ref name="日本アカデミー賞公式"/><ref name="日テレDON20100406何の日"/><ref name="第33回日本アカデミー賞" />。名称を始め色々物議があるを醸すイベントだが、第4回(1981年)の[[黒澤明]]の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『[[影武者]]』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。
 
* [[1978年]]から始まった[[日本アカデミー賞]]は当時、[[電通]]開発企画事業局長だった入江雄三が岡田に企画を持ち込んで始まったもの<ref name="日本アカデミー賞公式"/><ref name="日テレDON20100406何の日"/><ref name="第33回日本アカデミー賞" />。名称を始め色々物議があるイベントだが、第4回(1981年)の[[黒澤明]]の辞退問題には心を痛め、直接黒澤に電話して説得に当たろうとしたが、何度掛けても黒澤は電話に出ず。やむなく「貴殿だけ参加しないのは自由意志だが『[[影武者]]』のスタッフにまでノミネートを辞退させるな」という内容の質問状を送ったが、これに黒澤は事実無根と噛み付き烈火の如く怒った。
 
* [[1979年]]の[[森下愛子]]の初主演映画『十代 恵子の場合』は、岡田が東京都の麻薬追放キャンペーン「十代 恵子の場合」というパンフレットを読んで、「タイトルがいいから読んで脚本を書いて低予算で作れ」と[[内藤誠]]に命じたものという<ref name="ニッカン20110510_22-24"/>。また内藤監督の『ネオンくらげ』(1973年)は、音楽も担当してもらった[[三上寛]]の[[LPレコード]]から自分でストーリーを作って試写を岡田に観せたら、岡田が「おお、これは続編だ!」と言ったという。「えっ、(もう)続編!?」と思ったというが、試写を観ただけで続編と言えるところが、岡田社長のスゴイと言えばスゴイところと話している<ref name="flowerwild20090701_内藤誠3" />。
 
* [[五社英雄]]は[[1980年]]に[[銃刀法違反]]容疑での逮捕や、会社の[[労組]]問題で孤立しフジテレビを退職した。とりあえず生活していくため飲み屋をやろうと「五社亭」という店名に決め開店の準備をしていた。それを見かねた[[佐藤正之]]が岡田に“五社を何かに使ってやってくれ”と頼んできたので<ref name="キネ旬2011071_62-63"/><ref name="映画美術_221" />。岡田が五社に“一度会社に顔を出せよ”と電話した。負けず嫌いの五社は目いっぱい突っ張って岡田に会いに行ったが、岡田は“お前、いろいろあったみたいだけど、元気そうじゃないか。それにしても、お前は負けっぷりがいいな”と言われた。意地でも負けを認めたくなかったところに“負けっぷりがいい”と、負けを讃えられたことは何より嬉しく、五社は肩の荷が下りた気がしたという。“どうだ、死ぬ気になってもう一度映画を撮ってみないか。何か撮りたい企画があったら持って来いよ”と言われ、持って行った企画が[[宮尾登美子]]の小説『櫂』だった。しかし『櫂』は話が地味過ぎるということで、[[日下部五朗]]が持ってきた『[[鬼龍院花子の生涯]]』を映画化することになった。“これを五社にやらせろ。こういうのは五社がうまい”と岡田が五社を監督に抜擢し<ref name="キネ旬2011071_62-63"/>五社の映画界復帰が決まった。“この作品がヒットしたら『櫂』も『陽暉楼』も撮らして下さい”と五社は岡田から承諾を得ていたため『鬼龍院花子の生涯』が「なめたらいかんぜよ」の台詞もブームになって興収20億円の大ヒットとしたことで、約束通り『陽暉楼』『櫂』と宮尾登美子原作の三部作を撮ることが出来た。『鬼龍院花子の生涯』は東映の営業も劇場の支配人の誰一人お客が来ると予想する者はおらず、「来ると読んだのはワシだけ」と岡田は自慢している<ref name="活動屋人生_172-181"/><ref name="活動屋人生_182-192"/>。これらは東映に新たな“女性文芸大作路線”を確立させた<ref name="クロニクル1_314-315他"/><ref name="さよならだけが人生さ_71-108" /><ref group="注釈">五社の映画製作の経緯は、脚本でコンビを組んだ高田宏治の著作などにも詳しい(『[[#高田宏治|高田宏治東映のアルチザン]]』)</ref><ref name="スポーツ報知20110510web_見舞い断る"/>。
 
* 『[[鬼龍院花子の生涯]]』を企画した[[日下部五朗]]によると、最初の企画会議で、この『鬼龍院花子の生涯』も岡田に「暗い」と一旦却下されたが、岡田は自分より輪をかけてドスケベだから、2回目の交渉で「これは土佐の大親分が妻妾同居で1階に正妻を、向かいに妾を住ませて、双方の家を行き来してヤリまくる話です」と話したら、一発逆転でOKが出たという。[[流行語]]にもなった「なめたらいかんぜよ!」の台詞で[[夏目雅子]]の代表作となった映画として有名だが、日下部によると夏目の演じた[[ヒロイン]]松恵役は当初、[[梶芽衣子]]が演じる予定であったという。梶は日下部にプロットと原作本を送ってきて、これを読んだ日下部が「これは映画になる」と直感し、原作小説を買い取り映画化の準備をはじめたと話している。女優が本を送ってくるということは「自分がヒロインをやりたい」という暗黙の意思表示であるが、日下部は[[和田勉]]が演出した[[日本放送協会|NHK]][[テレビドラマ|ドラマ]]『[[ザ・商社]]』(1980年)で、既に脱いでいた夏目を「この子は脱げる」と松恵役に起用しようとした。松恵役は梶がやるにはあまりにも大人びているなどと梶を説得し、松恵役以外の役の代替案を提示したが、梶は断固譲らず。企画のきっかけを与えてくれた功労者との交渉は結局決裂したという<ref name="週刊現代_20100123_62-67" /><ref name="東スポ20100406他" />。
 
* 日下部は、「自分がどうしても通したい企画があったら、岡田さんのところへ二度三度と持って行き、直談判しました。プロデューサーの中でも、そこまでやるのは僕だけだった」その代わり「『こんなもん当たるか!俺のところへよう持ってこれたな』とクソミソに罵倒され、何度、台本をぶつけられたか分かりません。女優さんの目の前で罵られた時は、本当にキツかった」と話している。当時は、岡田をいかにダマして、会社の思惑と違う作品に作り上げるかに神経を注いだという。[[1983年]]に[[カンヌ国際映画祭]]でグランプリを取った『[[楢山節考]]』は、しつこく通ううち岡田が根負けしてOKを出したという。[[1979年]]の映画賞を独占した『[[復讐するは我にあり]]』は、原作を気に入り、深作欣二でアクション風に撮ろうとプランし、[[佐木隆三]]夫妻を京都に招いて接待をしていたが、深作と二人で岡田に掛け合ったら「バカもん!連続殺人犯の話なんか暗くて当たるか!」と怒鳴られ、あえなく頓挫。これは[[今村昌平]]監督で松竹で映画化された。このため、今村を監督で考えた『楢山節考』にも、岡田はいい顔をせず、「前に[[木下恵介]]さんが撮ってるやろ。エエ加減なもん持ってくるな」とボロクソ。ところが「社長、題は同じでも中身が違う。実は[[にっかつロマンポルノ]]10本分くらい、ドバーッと[[濡れ場]]があるんです」とハッタリをかましたら、岡田は「うわあ、そら、ええなあ!」とOKとなった。これは完全なハッタリで『楢山節考』には、ちょっと脱いだ[[清川虹子]]に[[左とん平]]が乗っかるシーンしかない。岡田は『映画ジャーナル』1982年2月号のインタビューで『楢山節考』を"異色の芸術ポルノ"と表現しており<ref name="活動屋人生_160-171"/>、岡田は日下部の話を真に受けていた可能性がある。日下部は、岡田が言い出した≪不良性感度≫「映画は元来、不良青年がつくるもの。スケベな文学青年が作る、通俗性のある作品がいちばんいい」という岡田の持論に賛成する。いろんな監督・脚本家・役者と組んだが、振り返ってみると、スケベな人ほどいい仕事をしていると話している<ref name="週刊現代_20100123_XX" /><ref name="東スポ20100406他" />。
 
* [[1980年]]に『[[二百三高地]]』が大ヒットすると、各社で戦争映画、大作映画が作られるようになった。岡田は笠原に「もう一本、戦争映画で行こう」と指示。笠原は「もう一本って何を書いたらいいんですかね」と聞くと「今度はジス・イズ・ザ・ウォー! ってやつだ」「はあ」「この前の戦争をやろう。[[太平洋戦争]]、[[大東亜戦争]]を」「あれ、負け戦ですよ、[[日露戦争]]と違って」「お前な、勝ったところだけ繋げりゃええんや」「みんな、負けたこと知ってますよ」「だからジス・イズ・ザ・ウォーやないか!」と、[[太平洋戦争]]の脚本執筆を指示。『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』『零戦燃ゆ』の後、大作路線の一連の仕上げとして、岡田は[[瀬島龍三]]から頼まれて「昭和天皇というのをやろう」と笠原に脚本の指示を出した。『二百三高地』に瀬島を監修で呼んだのは岡田である<ref name="人生ちょっといい話"/>。脚本は書き上がったが[[宮内庁]]の反対を喰らい頓挫。力を入れた脚本が流れた笠原は大きなショックを受け、これ以降仕事に力が入らなくなってしまったという<ref name="やくざなり_91-103" /><ref name="昭和の劇_422-424_454-455他" />。映画村がオープンした時、岡田は瀬島を撮影所に案内したが、岡田が照明や小道具、衣装などのスタッフみんなに声を掛けて回り、それも名前を全て覚えているのに瀬島は感心し、「この職場は統制のない秩序がある。上から強制しなくても秩序がちゃんとできている。本当の理想的な社会だ」と褒めたという<ref name="活動屋人生_6-7"/>。瀬島は大川毅が退職した1987年に東映の相談役に就任している<ref name="活動屋人生_213-223"/>。
 
* 笠原はこの後、アイドル映画([[中森明菜]]、[[近藤真彦]]共演の『愛・旅立ち』)や、他社脚本も手掛けるが、[[1989年]]に松竹で脚本を書いた『226』では圧力で内容を変更させられた。これに対して笠原は、「奥山親子(奥山融、[[奥山和由]])はだらしがない。僕は東映で『仁義なき戦い』とかやってきたけど、あれは岡田さんというプロデューサーが、単に当たればいいというんじゃなくて、ある種の活動屋精神、やりたいものはやってみろ、という度胸があったからで、そういう信念があったから、こっちも安心して書けた。岡田さんが『226』をプロデュースしていたら、もっとちゃんとしたものが出来たと思う」と話している<ref name="昭和の劇_537-546"/>。
 
* [[山口百恵]]と結婚した[[三浦友和]]を岡田は「こいつをいつか東映のスターにする。これで成功させて次々やるんだ」と『[[獣たちの熱い眠り]]』(1981年)という映画を製作。“ウェイク・アップ友和!”という惹句を付けて、三浦をそれまでの青春スターから、[[ハードボイルド]]役者として売り出しを図ったが、三浦は東映ではスターになれなかった<ref name="惹句術_400-402" />。
 
* [[1982年]]の『[[誘拐報道]]』は[[伊藤俊也]]が「何としても映画化したい」と岡田に直談判してきたもの<ref name="週刊新潮_19820211_13" /><ref name="ヒロイン小柳ルミ子" >[http://www.asagei.com/5144 80年代黄金ヒロインたち 小柳ルミ子 | アサ芸プラス]</ref>。翌1983年の『[[白蛇抄]]』も伊藤が「[[小柳ルミ子]]の初主演作で」と企画を出し岡田もOKを出したが、原作の官能描写の凄さに[[渡辺晋]]が激怒し岡田を呼びつけ、「ウチの可愛い娘を頼んだぞ」と言ったという<ref name="ヒロイン小柳ルミ子" />。また1991年の映画『福沢諭吉』は、雑誌『[[経済界 (出版社)|経済界]]』の主幹・[[佐藤正忠]]が「東映が[[福沢諭吉]]を映画にするから賛助金を」と企業から金を集めて廻ったため作らざるをえなくなったもの<ref name="活動屋人生_246-256"/><ref>[http://ameblo.jp/yuyumi310/entry-10888430452.html 雨の青山斎場|佐藤有美オフィシャルブログ「虎ノ門で働くオンナ社長」2011-05-11 ]</ref>。しかし岡田は佐藤が嫌いでプロデューサーは息子の岡田裕介に代わった<ref name="やくざなり_106" /><ref name="昭和の劇_556" />。1983年の『[[唐獅子株式会社]]』は企画を聞いて"[[横山やすし]]主演"という条件で製作を即断した<ref name="活動屋人生_182-192"/>。[[1991年]]の『動天』は [[なかにし礼]]が突如、岡田のところへ来て「映画を作りたいから協力してくれ」「製作資金は[[トーメン]]が面倒見てくれる。前売りも100万枚確保します。東映には迷惑かけませんから」というから、トーメンの[[北村恒夫]]社長を囲んで会い、北村の「なかにし君のロマンに賭けたい」という言葉に納得して製作した <ref name="活動屋人生_246-256"/>。
 
* 岡田は「30秒で説明できない話は映画にならない」というのが持論で、[[内田裕也]]が[[1983年]]、初めて脚本を書いた『[[十階のモスキート]]』の映画化のお願いに社長室の岡田を尋ねると「どんな話だ」って言うから「[[警察官]]がね、最後は挫折して、ついに[[郵便局]]に[[強盗]]に入って、最後、金食う話だ」って言ったら「そんなもの映画になるか!タイトルはなんつうんだ?」「十階のモスキート」「なにぃ?十階のモスキート?」と言われ「あ、じゃあいいですよ」って帰った。これは結局、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]で映画化され[[崔洋一]]が新人賞を獲るなど高い評価を得た。二年後、今度は『[[コミック雑誌なんかいらない!]]』の脚本を書いて、再び岡田に持って行くと社長室の前に[[安藤昇]]が。「安藤さん、先に」と言うと「いや、そういうわけにはいかないから」って、天下の安藤昇さんに「お願いだから先に入って下さい」と言われ、社長室に入ると「なんだぁ~」といつも岡田は内田に偉そうに言う。で「タイトルを言ってみろ」『コミック雑誌なんかいらない』「ふぅん。で、本題はなんだ?」「いや、[[リポーター|テレビレポーター]]がガーって行って、それで[[フィクション]]と[[ノンフィクション]]を交錯しながら、最後に刺されて、I can't speak fucking Japanese.って言って、[[マイク]]を股間から取り出して、[[ホームベース]]に投げるって話」「そんなの映画になるか!」「じゃあ、帰ります」って。安藤はクーと笑ってて。で、岡田が「裕也(脚本)置いてけえ」って言ったが「いや、いいですよ。作ってから持ってきますよ」と。この映画は[[アルゴ・ピクチャーズ|ニュー・センチュリー・プロデューサーズ]]で製作されたがどこもビビり、上映館はまったくなかった。しかし[[早稲田大学]]の反映研グループの上映からスタートし、[[奥山和由]]が「僕に任せてくれ」と言って[[松竹]]の重役会議にかけられたがやはり配給は不能。ところが[[カンヌ映画祭]]の監督週間に受かって話題を呼び、多くの映画館にかかるようになった。『[[コミック雑誌なんかいらない]]』は同年、多くの映画賞を受賞し海外でも高い評価を受けた。[[毎日映画コンクール]]でも内田が脚本賞を受賞し、そのプレゼンテーターが岡田に。[[高岩淡]]が電話してきて「なんか資料ないか言うとりまんねん、岡田が」って言うから「そっちで調べてください」と[[しかと]]。授賞式のとき、岡田が照れくさそうに「第41回毎日映画コンクール脚本賞、コミック雑誌なんかいらないの脚本、優秀につき表彰する」。内田はポケットに手突っ込んで「ありがとうございま〜す」と言ってやった。これは俺の人生でも最高の[[リベンジ]]だった、と内田は話している。[[2009年]]、内田の娘婿・[[本木雅弘]]が企画した(内田はまったく係わっていないが)『[[おくりびと]]』が[[第81回アカデミー賞]][[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]を受賞し、配給を[[松竹]]が担当したため、高岩に「なんでああいう映画、うちに持ってきてくれへんねん」と言われたという<ref name="オリコンdeadlink_内田裕也" /><ref name="ニッカン20110510_22-24"/><ref name="俺は最低な奴さ_280"/><ref name="スポニチ20110510_17"/>。
 
* 内田はそれから東映には強気に。東映に行ったら1時間半は会長室に居座り([[東宝]]は俳優や[[黒澤明]]以外の映画監督は会長室に絶対に入れない)[[岡田裕介]]は内田が来るとすぐ出かけていなくなるという。あるとき岡田が[[岸恵子]]と話していて内田に「おい、ちょっと来い。これ岸恵子」「知ってますよ」「これが[[鶴田浩二]]とな、付き合ってたんだけど、ワシが[[箱根]]の[[旅館]]に逃がしてやったんだ」って。岸は迷惑そうにしていた。内田は「岡田さんは最高だよ。俺、メッチャ好き。面白くて笑っちゃう。背が高くて、いい男で、東大出で、頭良くて。これ以上の理想ない。[[田岡一雄|山口組の三代目]]が『君のような大学出がこれから必要だ。うちに来ないか』って誘ったっていうんだから」などと話している<ref name="俺は最低な奴さ_280"/><ref name="twitter_内田裕也" /><ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20120511-OHT1T00271.htm 東映・岡田名誉会長、しのぶ会に1200人]、[http://www.sanspo.com/geino/news/20120512/oth12051205040009-n1.html 内田裕也「よく怒鳴られた…大好きな人」]</ref>。
 
* [[吉田拓郎]]と対談して、悪天候の中でもステージをやり、足元がぬかるみにも関わらず、お客が何万人も入り、歌手と泥だらけのお客さんが一体となって盛り上がったという話を聞き、談話の内容を ''[[ニューミュージック]]的映画作り'' という意味不明の題名を付け、東映の社内誌『東映』に載せ社員に配った。その頃、お客の映画館離れが進んでいたのは、映画館の設備が悪いためと考えて臭いトイレを改装し、座席も[[リクライニングシート|リクライニング]]のいい物に変更予定だった。ところが急に「映画館のトイレ、直さんでええ。トイレが臭かろうと客はくるで」と言い出した。山城新伍は岡田が言いたかったのは、たとえトイレが臭かろうが、面白い映画を作っていけば、お客はいくらでも来る。椅子からバネが飛び出していても、映画が面白ければその痛さに気付かない。だから泥の上に座ってでも見てくれるような映画を作っていけということ、と解説しているが、社員が理解できたのかは不明<ref name="河原乞食考_49-50" />。
 
* 岡田と40年以上の付き合いがあったという[[日枝久]]は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の編成局長時代に長寿ドラマ『[[銭形平次 (大川橋蔵)|銭形平次]]』の打ち切りを決断したが、岡田の猛烈な説得工作の前に撤回させられる羽目となり、その後始末で酷い目に遭ったと話した<ref name="産経MSN20110516_最後の活動屋" />。『銭形平次』の延長にあたり、フジテレビの「8」にちなんで888回までとする大義を作り、[[大川橋蔵]]の説得を得られたのも岡田の計らいという<ref name="財界20110607_60-62"/>。
 
* [[1986年]]、当時26歳の[[黒木瞳]]の映画主演デビュー作『[[化身 (渡辺淳一)|化身]]』で[[ホステス]]役をさせるため、実際に[[銀座]]の[[高級クラブ]]で[[アルバイト]]させた<ref name="スポニチ20110510_17"/><ref name="スポーツ報知20110510_19"/><ref name="スポニチ20110511web_北大路欣也"/><ref name="NEWS24_20110510_思い出"/><ref name="スポーツ報知20110510web_志穂美悦子"/><ref name="朝日新聞20110509web_広島" /><ref name="プレスネットnodate_インタビュー" />。
 
* [[若松孝二]]は[[パレスチナ]]の[[日本赤軍]]と交流を持ったため、10数回警察から[[捜索|ガサ入れ]]を受け『[[赤軍-PFLP・世界戦争宣言]]』(1971年)は[[シネマート新宿|新宿文化]]で上映禁止にされ、『[[天使の恍惚]]』(1972年)は、公開を延ばされ、『[[キスより簡単]]』(1989年)は、神奈川県警が[[バンダイ]]を訊ねてきたため、バンダイに不利な条件で契約されるなどの実害を被ったと述べているが、東映で「[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]」をやるようになったときにも、警察が岡田のとこに行ったという。すると岡田は「おい、若よ。お前が帰ったあと、[[公安警察|公安]]が来たよ。お前、何かやったのか?」「いろいろやりましたが、映画が好きなだけだから、大丈夫ですよ。ご迷惑せはかけませんから」「まあ、いろいろやれば、政治に巻き込まれることもあるな」と、岡田は少しも動じなかった。もしかしたら社長の一言で映画が撮れなくなったかもしれないのに、トップにいる人は、俺がどういう人間が、すぐに見破る。岡田さんだけは大物だった。やっぱりすごい人でしたなどと話している<ref name="時効なし。_87-89" />。ただ、1986年に撮った『松居一代の衝撃(衝撃 PERFORMANCE)』を、岡田が「成人映画はいっさい自分の映画館じゃかけない」と宣言したため、ピンク映画チェーンでしかかけられなくなり大赤字を出して、[[若松プロダクション|若松プロ]]があった[[原宿セントラルアパート]]のマンションを売る羽目になったという<ref name="時効なし。_120" />。[[横山博人]]は1986年に東映から『[[ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌]]』の併映作の依頼があり、当たればシリーズ化するからと言われ、東映からの「都会的でしゃれた映画にしろ」の指示を受け、[[全共闘世代]]を登場させ「都市化」と匿名性の問題にも触れたシナリオを作ったが、これを読んだ岡田が激怒し「やめてしまえ!」のひとことで東映の夏休み映画の監督を降ろされた、と話している<ref name="横山博人公式_卍とフリーター1" />。
 
* [[1989年]]の映画『[[社葬 (映画)|社葬]]』は、[[鶴田浩二]]の[[葬儀]]で、葬儀委員長を務めた岡田のアイデア<ref name="クロニクル1_346" />。
* [[白倉伸一郎]]は[[1990年]]、入社時の面接試験で、岡田ら幹部を前に『[[仮面ライダーシリーズ]]』を批判し、熱い思いを語ったことで合格となったという。
 
* [[渡辺淳一]]の出版パーティーの壇上で「このごろ渡辺さんは[[性行為|アッチ]]の方が弱っているそうだが、やり続けなきゃだめだ」と激励した<ref name="それでも_154" />。
 
* [[1996年]]、[[ルパート・マードック]]が[[孫正義]]と組んで[[旺文社]]から[[テレビ朝日]]の全[[株式]]を買い取り、筆頭株主となって日本の電波業界が大揺れ。東映はテレビ朝日の大株主で、[[20世紀フォックス|FOX]]とも付き合いがあったため、FOXを傘下に持つマードックに岡田が直談判、「無理やり日本に進出しても支持されない」と説得した。結局、[[朝日新聞社]]がその株式をすべて買い取ることで合意し、マードックの進出を阻止した<ref name="財界20110607_60-62"/>。
 
* [[2001年]]の『[[千年の恋 ひかる源氏物語]]』で[[特撮]]を担当した[[佛田洋]]は、[[ハリウッド]]でのワールドプレミアに、岡田茂会長、主演の[[吉永小百合]]、[[高岩淡]]社長、[[岡田裕介]]プロデューサーら数名と同行。[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]の一ヶ月後であったが、それよりも岡田茂の[[オーラ]]の凄さにビビったという。朝、ホテルの食堂で離れたとこにいたら「こっちへ来いよ」と岡田に言われたが、あまりにもオーラが凄すぎて「いや、僕はこっちで」と遠慮した。「ぶっちゃけテロの余韻より岡田会長の存在感のほうが僕には強烈でした」「僕の大好きな東映不良性感度映画を大量に世に送り出したご本人でしょ。[[ミニチュア]]がやりたくて東京に出てきた自分が、その岡田さんと一瞬でも接点を持つなんて思いもしなかった。今思うとあのとき一緒に食事をしとけばよかったなぁ。とにかく『千年の恋』と言うと(テロや特撮のことより)そのときのことを思い出します」と話している<ref name="佛田洋"/>。
 
* [[2002年]]、[[日刊スポーツ映画大賞]]の表彰式で『[[たそがれ清兵衛]]』で主演男優賞を獲得した[[真田広之]]について「ウチにいたときよりずっと良くなったよ」と話した<ref name="ニッカンdeadlink_映画大賞" />。真田も東映が『[[忍者武芸帖 百地三太夫]]』(1980年)、『[[吼えろ鉄拳]]』(1981年)、『[[燃える勇者]]』(1981年)と、主演映画を連打させ、アクションスターとして売り出された人だが、初主演作『忍者武芸帖 百地三太夫』は当初、[[ジャッキー・チェン]]の[[カンフー映画|香港カラテ映画]]を参考にしたナンセンスアクションであったが、岡田が真面目な時代劇に変更したという<ref name="シネアルバム82_154-155" /><ref name="シネアルバム88_0-5" />。
 
* [[1994年]]、東京広島県人会の会長に岡田が就任すると(前任者は[[田部文一郎]])会員が急に増え、現在4000人と在京[[県人会]]の中で一番多いともいわれる<ref name="プレスネット20110521_巨星墜つ"/><ref name="中国放送20000429_ふるさと" />。これは、それまでの財界人中心の集まりから、青年部を作って学生ら若い人たちにも入りやすくさせたり、広島出身に拘らず、広島にゆかりのある人も入会出来るようにしたため<ref name="中国新聞別冊20090129_1-7" />。毎年1月にある総会には出席者が1200〜1300人にも及ぶ。このため他の県人会から見学者が来るほど。2007年の総会では「故郷を大事にしないモノは、何をやってもダメだ!」とぶった。2008年から名誉会長となり、現在の会長(8代目)は林有厚([[東京ドーム (企業)|東京ドーム]]社長)。
 
* 出身地の東広島市西条の[[フジ (チェーンストア)|フジグラン]]西条店内に東映系初の[[シネマコンプレックス|シネコン]]「Tジョイ」開業の時、オープニングセレモニーに出席している<ref name="プレスネット20110521_巨星墜つ"/>。また同市内には古くから広島東映カントリークラブというゴルフ場もあり、地元・広島の伝説的話では、かつて呉市に開業したホテルのオープニングセレモニーには、'''東映の役者がみんな来た'''、という話がある。
 
<ref name="日本経済新聞20110510_13">「大谷信義松竹会長談」『[[日本経済新聞]]』2011年5月10日13面。</ref>
<ref name="日本経済新聞20110510_13">『[[日本経済新聞]]』2011年5月10日13面</ref>
<ref name="日本経済新聞20110513_40">『[[日本経済新聞]]』2011年5月13日、p40</ref>
<ref name="日本俠客伝_22">山田宏一『日本俠客伝:マキノ雅弘の世界』ワイズ出版、2007年、p22。ISBN 978-4-89830-220-0</ref>
<ref name="任侠が青春_12-13">『[[#任侠が青春|任侠映画が青春だった]]』p12-13</ref>
<ref name="秘宝201012_39-46">『[[#秘宝|映画秘宝]]』2010年12月号、p39-46</ref>
<ref name="秘宝201108_45">『[[#秘宝|映画秘宝]]』2011年8月号、p45</ref>
<ref name="秘宝グラインド_164">『グラインドハウス映画入門』〈洋泉社MOOK 別冊[[#秘宝|映画秘宝]]〉[[洋泉社]]、2007年、p164</ref>
<ref name="秘宝トラック野郎_108">[[鈴木則文]]・[[宮崎靖男]]・[[小川晋]](編著)『映画「トラック野郎」大全集:日本最後のアナーキー・プログラム・ピクチャーの伝説』〈洋泉社MOOK 別冊[[#秘宝|映画秘宝]]〉[[洋泉社]]、2010年、p108。ISBN 978-4-86248-468-0</ref>
<ref name="秘宝トラック野郎_48">[[鈴木則文]]・[[宮崎靖男]]・[[小川晋]](編著)『映画「トラック野郎」大全集:日本最後のアナーキー・プログラム・ピクチャーの伝説』〈洋泉社MOOK 別冊[[#秘宝|映画秘宝]]〉[[洋泉社]]、2010年、p48。ISBN 978-4-86248-468-0</ref>
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