「郡上一揆」の版間の差分

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庄屋中心の惣代寄合メンバーによる交渉解決が行き詰った段階で、郡上郡中の各村農民に動員がかけられた。宝暦4年8月10日(1754年9月26日)郡上郡中そして郡上藩の越前領内からも集結した大勢の農民たちは<ref group="†">宝暦4年8月10日(1754年9月26日)の強訴時に集結した農民の数については、数百人とする資料から多いものでは三千人とする資料もある。高橋(2005)は、郡上領内各村の動員は百石につき三名とする資料から、約500人であったと推定している</ref>、藩側に検見法への年貢徴収法改正断念を願う願書とともに、金森頼錦が藩主となって以降の各種の税や御用金、使役の負担増を指摘し、負担免除を願った十六か条の願書を差し出すという[[強訴]]に及んだ。この強訴には一般農民たち以外に、郡上藩が進めていた絹や茶、紙などといった商品作物に対する課税強化や、牛馬などに対する通行税取り立てに苦しむ豪農層、商人層の協力があり、郡上領内でも比較的豊かである郡上川沿いの藩南部、下川筋が主導していた<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.355、大賀(1980)p.177、白石(2005)pp.36-37、高橋(2005)p.29</ref>。なお、この宝暦4年8月10日の強訴時点で、農民層の中に藩の施策に対して従順である農民が現れており、やがて藩に従順な農民たちのことを寝者<ref group="†">高橋(2005)によれば、郡上一揆では藩側に立つ反一揆派を寝者と呼ぶが、これは立者と呼ばれた一揆勢が付けた呼び名であり、反一揆側は自らのことを定法者と呼んだ。</ref>、一方、藩に対抗していく農民らを立者と呼ぶようになる<ref>白石(2005)p.48</ref>。
 
強訴に対して藩側はまず代官猪子庄九郎、別府弥格が対応を行った。両代官は大勢の農民らの剣幕に恐れをなし、続いて家老である渡辺外記、粥川仁兵衛らが農民たちへの対応に当たった。農民の怒号が響き渡る中、両家老は願書を受け入れ検見法への年貢徴収法改正を断念する旨記した免許状を渡し、十六か条の願書についても了承する旨の免許状を手渡した。しかし免許状には渡辺外記、粥川仁兵衛両家老の署名印形はあったが、当時蟄居中であった筆頭家老の金森左近の署名印形がないことに農民たちが騒ぎ出したため、金森左近の署名捺印を経て、農民代表の小野村半十郎、剣村庄屋に免許状が手渡され、要求が受け入れられたことを確認した農民らは各村へと引き上げていった<ref>白石(2005)pp.37-40</ref>。なお郡上藩に召し抱えられた後、藩領の巡検を行って年貢取立て方法の改正を進めていた黒崎佐一右衛門は、宝暦4年8月10日の強訴騒ぎの中、郡上藩領から逃亡した<ref>白石(2005)pp.45-47</ref>。
 
農民たちの強訴が当初比較的すんなりと受け入れられたのは、郡上藩内での路線対立が背景にあったものと考えられている。郡上藩内には年貢徴収法の改正によって農民たちから厳しく年貢を取り立て、藩の収入増加を図る方針に反発する勢力があり、筆頭家老の金森左近はその勢力の代表格であった。藩内の意見対立はその後も尾を引き、年貢増徴反対派の金森左近らは罷免されていくことになる<ref>高橋(2005)pp.28-29</ref>。
宝暦5年11月になると藩の弾圧はいよいよ激しさを増した。郡上領内では入牢、手錠、宿預けの処分が連日60-70名行われ、激しい弾圧を避けるために郡上領内から逃げた農民も約200名に及んだ。一揆を弾圧しながら藩側は検見法による年貢取立てを強行し、とりわけ抵抗が激しい郡上郡内の上保之川(長良川)流域の上保之筋と吉田川流域の明方筋では、藩側も重点的に一揆勢の取締りを行った<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.369、白石(2005)pp.96-97</ref>。井上正辰邸に訴状を提出した後に郡上へ戻ることになった剣村藤次郎も、11月半ばに関寄合所まで戻って江戸の情勢を伝え、その後郡上領内に戻ったものの、やはり藩側に拘束後投獄された<ref>白石(2005)pp.99-100</ref>。
 
一揆勢に対する藩側の攻勢により、一揆から脱落する農民が続出し、最盛期には約5000人の農民が参加していたという一揆勢は数百人にまで減少した。この頃からあくまで一揆に参加し続ける農民たちを立者、立者が多い村を立村、一方、一揆から脱落し藩側に従順な農民たちを寝者、寝者が多い村を寝村と呼ぶようになった<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.368-369、白石(2005)pp.99-100</ref>。
 
なお郡上一揆と同時期、郡上藩の預り地であった石徹白では石徹白騒動が起きており、宝暦5年11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)にかけて500余名の人々が石徹白から追放されるなど混乱が長期化していた。郡上一揆と石徹白騒動は発生原因や経緯が異なる別個の事件であり、両者の事件当事者間ではっきりした連携がなされた形跡も見られない<ref group="†">郡上一揆と石徹白騒動は同時期に同じ地域で発生した大事件ではあるが、背景や経緯が異なる別個の事件であり、正式に連携して行動したことはないとされるが、大石(2001)は、一揆が最も激しかった上之保筋と石徹白が隣接していることから、両者に何らかの連携があったのではと推測している。</ref><ref>白鳥町教育委員会(1976)p.437、大賀(1980)p.180</ref>。しかし郡上藩側としては、石徹白騒動で行った500名以上の社人追放というきわめて強硬な処分は、一揆を続ける郡上藩領の農民への見せしめとする意図があった<ref>大賀(1980)p.180</ref>。
5名の駕籠訴人は当時罪人扱いの者が乗せられた、籐丸駕籠に乗せられることもない上に、当時百姓身分では厳禁であった帯刀をして郡上へ向かった。なお、郡上への帰途に帯刀したことは後に行われる郡上一揆の幕府評定所での判決で罪状の一つに挙げられることになる。宝暦7年1月7日(1757年2月24日)、大勢の一揆勢農民の出迎えを受け、駕籠訴人は郡上へ戻った。駕籠訴人は郡上藩側から村預けを言い渡され、各村の庄屋宅の座敷牢に監禁処分となった。各駕籠訴人の座敷牢は郡上藩の足軽、そして各村の農民らによって昼夜わかたず交代で見張り番が行われ、親類縁者や立者農民との接触は厳しく禁止された<ref>白鳥町教育委員会(1976)pp.377-378、白石(2005)pp.166-170、高橋(2005)pp.47</ref>。
 
駕籠訴人の帰国によって一揆勢の活動は更に盛り上がり、駕籠訴受け入れの採決が下るであろうとの内容の文書を郡上郡内に広めた。一方、駕籠訴人と同時期に郡上へ戻った30名の村方三役代表や藩側は、駕籠訴は却下されたと触れ回った<ref>野田、鈴木(1967)pp.55-56、白石(2005)pp.170-171、高橋(2005)pp.47</ref>。実際には駕籠訴の吟味は裁決が下されることなく放置された。一揆勢の中で急進派であった上之保筋の立者は一揆勢有利の裁決が下されものと楽観視して活動を更にエスカレートさせていくが、明方筋や下川筋の立者は上之保筋の活動に必ずしも同調せず、駕籠訴の吟味についても店晒しになるのではないかと冷静に分析していた<ref>高橋(2005)pp.47-49</ref>。なお、駕籠訴の吟味は進められることなく放置されたが、幕府内部では宝暦7年(1757年)から宝暦8年(1758年)にかけて、郡上藩の年貢徴収法について幕府役人である美濃代官が介入したことに関して、勘定奉行の大橋親義に対する事情聴取は続行されており、これは幕府内特に[[勘定所]]内での年貢増徴派とそれに反対する派の路線対立が影響していた<ref>大賀(1980)pp.184-185、pp.192-193</ref>。
 
郡上帰国当初、厳しい軟禁状態に置かれた駕籠訴人であったが、宝暦7年(1757年)3月には見張り役の足軽が引き上げ、同月、庄屋宅の座敷牢に監禁されていたものが自宅軟禁へと切り替わった。その後駕籠訴人らは村預け処分は変更されないものの、駕籠訴人名義で各村に回状を回すなど一揆勢の指導的な役割を果たすようになる<ref>野田、鈴木(1967)p.56、白石(2005)pp.179-180</ref>。
宝暦7年6月11日(1757年7月26日)、駕籠訴人の前谷村定次郎、切立村喜四郎の名で村々に回状が回った。回状では殿様、農民の敵は寝者であり、寝者の亭主子どもはもちろん、家来であっても決して挨拶してはならないとし、同じ農民同士でありながら、一揆勢の立者と反一揆勢の寝者との間の厳しい対立を示したものであった<ref>白石(2005)pp.193-195、高橋(2005)pp.52-53</ref>。また村によっては寝者と交際したことが判明した場合、罰金を徴収することを取り決めた<ref>白鳥町教育委員会(1976)p.382</ref>。
 
このような情勢下、宝暦7年(1757年)6月には、反一揆勢である寝者の側でも、強固な寝者同士の結束を固めるために駕籠訴仲間不加入連署状という証文が交わされる事態となり、立者と寝者の対立はエスカレートしていった<ref>小椋(2000)p.69、白石(2005)pp.197-198、高橋(2005)p.212</ref>。ただ、郡上郡内の立者、寝者間の対立は激化していたが、一揆勢の立者の中でも活動に消極的な人たちがあり、寝者も駕籠訴仲間不加入連署状を取り交わした強固な反一揆派から、一揆そのものに関心が薄い人たちまで様々であ。その他立者、寝者の中立の立場を取る「中人」、更には立者、寝者双方に好を通じる「両舌者」という人もいた<ref>小椋(2000)p.69</ref>。そして一揆勢に有利な情勢になると立者が増え、逆に藩の締め付けが厳しくなるなど一揆勢が困難な課題に直面すると寝者が増加するなど、立者、寝者は決して固定的なものではなく、その時々の情勢によって流動的であった。また立者、寝者にも深入りせず村として中立の立場を堅持した正ヶ洞村のような存在もあった<ref group="†">白石(2005)によれば、正ヶ洞村の庄屋であった伊兵衛は一揆勢から寝者の代表格の一人とされていたが、正ヶ洞村自体は立者、寝者の対立から一線を画し、独自の中立を守ったとしている。</ref><ref>白石(2005)pp.537-540、高橋(2005)p.212</ref>。
 
そして一揆勢から金銭要求を受けた上に所有する田畑の収穫物を取り上げられていた町方は、郡上藩側からの働きかけもあって、江戸で訴えを起こすことを計画した。結局宝暦7年(1757年)7月、町方と村方の代表が藩役人に連れられて江戸に向かい、郡上藩主金森頼錦の親族でもあった幕府寺社奉行の本多忠央のところへ向かい、訴訟について相談した。しかし本多忠央から、藩のやり方が良くないせいで郡上藩がらみの訴訟が頻発しているのだから、これ以上訴えなど起こさぬ方が良いなどと忠告されたこともあり、一揆勢に対する訴訟は不発に終わった<ref>白石(2005)pp.196-197、高橋(2005)p.53</ref>。
農業生産性が高いとはいえない郡上藩では、青山氏の時代も厳しい財政難が続くことになる。しかし農民たちの願いに応じて村ごとに三ヵ年限定の定免法採用をしばしば認め、飢饉時には農民に対する支援も行った。また歴代藩主は領内を巡検して農村事情を確認するなど、厳しい財政状況に悩ませられながらも、青山氏はきめ細かい農村への配慮を欠かさなかった。青山家の農民支配は厳しい統制を行う反面、農民たちに対する配慮も見られた<ref>岐阜県(1968)pp.959-963、白石(2005)pp.556-562</ref>。
 
また青山氏が郡上に転封となった郡上一揆直後、領内は立者、寝者の厳しい対立や、一揆によってお家断絶となった旧金森家家臣である金森浪人の存在など様々な反目が渦巻いていた。実際、金森氏改易後、青山氏の着任までの間郡上を治めた代官の多羅尾四郎左衛門に対し、立者たちが多数を占める村で寝者が孤立して難儀しているとの訴えが多く出され、また金森浪人の指示で一揆勢の墓石を破壊した上、川に投げ捨てるといった事件も発生している。このような藩内がずたずたとなった状態を和らげ、人々の融和を図るため、郡上に転封された青山幸道が夏の[[盆踊り]]を奨励したことが、[[郡上おどり]]の起源であるとの説がある<ref>小椋(2000)p.74、大石(2001)pp.27-28、白石(2005)p.448</ref>。
郡上一揆後、農民たちは一揆で犠牲となった人々の供養を行うようになった。[[明和]]元年([[1764年]])に七回忌が行われたのが最初の供養とされ、[[嘉永]]2年([[1849年]])から嘉永3年([[1850年]])にかけ、郡上郡内全域で百回忌が行われた。しかし江戸時代に村方三役や藩などと厳しく対立した郡上一揆の参加者を顕彰することはやはり無理であり、ようやく明治以降になって一揆の顕彰が始まるようになった。本格的な顕彰の動きは、[[明治]]44年([[1911年]])北濃村の三島栄太郎が「濃北宝暦義民録」を刊行し、義民顕彰碑建立の計画を立てたことに始まり、現在郡上市内各地には、「宝暦義民碑」「郡上義民碑」など、一揆に加わった農民たちを顕彰し、記憶にとどめるための記念碑が数多くある<ref>白石(2005)pp.565-573、高橋(2005)p.235、p.265</ref>。
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