「渋川尹繁」の版間の差分

[[明応]]5年([[1496年]])肥前守護を名乗り翌明応6年([[1497年]])には[[大内義興]]の協力により政資・高経親子を自刃に追い込み、渋川氏は延命することができた。
 
明応9年([[1500年]])、義興によって大内氏へ身を寄せていた前[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義尹]]に拝謁し正式に[[九州探題]]にも任じられた。[[肥前]][[養父郡]]綾部の肥前守護所へ、再び入る。
 
しかし、[[永正]]元年([[1504年]])、少弐政資の3男・[[少弐資元|資元]]によって守護館およびその詰城であった[[綾部城]]・[[白虎山城]]を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に[[少弐氏]]に通じた為、[[天文 (日本)|天文]]3年([[1534年]])に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。
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