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'''アントワーヌ=ジョゼフ・サンテール'''(Antoine Joseph Santerre、[[1752年]]3月16日 – [[1809年]]2月6日)は[フランス革命]]期の実業家、[国民衛兵]]の司令官。[8月10日事件]]の際、[テュイルリー宮殿]]を襲撃した[パリ]]国民衛兵隊を指揮した。また、[ルイ16世 (フランス王)|]]の処刑のとき、王のスピーチを妨げるためにドラムロールを命じたとされる。
 
== 生い立ち ==
サンテール家は[1747年]]、パリに「ブラスリー・ド・ラ・マグドレーヌ(Brasserie de la Magdeleine)」として知られる[ブルワリー|醸造所]]を購入し、サン・ミシェル([エーヌ県]])から移ってきた。アントワーヌ=ジョゼフの父アントワーヌ・サンテールは[1748年]]3月、裕福な醸造家ジャン・フランソワ・サンテールの娘であり、自分のいとこにあたるマリー=クレール・サンテールと結婚した。夫妻には6人の子供が生まれたが、アントワーヌ=ジョゼフはその3番目の子である。他の兄弟姉妹はマルグリット([1750年]]生)、ジャン=バティスト([1751年]]生)、アルマン=テオドール([1753年]]生)、フランソワ、クレールである。父アントワーヌは[1770年]]に亡くなった。姉のマルグリットと兄のジャン=バティストは家庭と家業を受け持ち、彼らの母が幼い子供たちを育てるのを助け、そして二人とも独身を貫いた。アルマン=テオドールは砂糖ビジネスに携わり、[エソンヌ]]に工場を構えた。他の家族は醸造業を続けた。フランソワは[セーヴル]]と[シャヴィル]]とパリに醸造所を所有した。一番下のクレールは弁護士と結婚した<ref>Santerre, général de la République Française: sa vie politique et privée By Antoine Étienne Carro pg 2 & 3</ref>。
 
アントワーヌ=ジョゼフはグラッサン大学に送られM.M.ブリソンとノレ修道院長の下で歴史と物理学を学んだ。彼は物理学に興味を持ち、それは結果として家業の醸造所で新たにビールの生産を行うことにつながった<ref>Santerre, général de la République Française: sa vie politique et privée By Antoine Étienne Carro, pg.4</ref>。
 
アントワーヌ=ジョゼフは1770年に独立すると、その2年後、遺産を元手に、弟のフランソワと共同で、65,000フランでサン=タントワーヌ城外区232にあったアルコック氏の醸造所を取得した。同じ年、彼は幼馴染の恋人で、やはり裕福な醸造家であった隣人の娘、マリー=フランソワと結婚した。アントワーヌ=ジョゼフは20歳、マリー=フランソワは16歳だった。しかしマリーは翌年、転落事故に由来する感染症で死亡した。妊娠7ヶ月だった。
 
アントワーヌ=ジョゼフは数年後、マリー・アデレード・ドラントと再婚し、彼女との間にオーギュスタン、アレクサンドル、テオドールの3人の子をもうけた。
 
== 軍歴 ==
アントワーヌ=ジョゼフ・サンテールは、その気前よさで、サン=タントワーヌ城外区での人望が篤かった。フランス革命が[1789年]]に勃発したとき、サンテールはパリの国民衛兵大隊の指揮権を与えられ、[バスティーユ襲撃]]に参加した。[1791年]][7月17日]]の[シャン・ド・マルスの虐殺]]の後、彼に対する逮捕状が出されたため、一時期潜伏したが、[テュイルリー宮殿]]に対するパリ民衆による襲撃([8月10日事件]])の際、復帰してサン=タントワーヌ城外区の人々を指揮した。その8月10日事件において、王とその家族は庭から[立法議会]]に避難し、群衆は[スイス傭兵|スイス人衛兵]]を虐殺した。そしてルイ16世はほどなく公式に退位させられることとなった。
 
サンテールは[国民公会]]から前王の監視役に任命された。ルイに処刑の動議が可決されたことを伝えたのは彼である。翌[1月21日]]の朝8時、サンテールは有罪となった男の部屋に入り、出発の時刻を告げた。彼は、約8万人の武装した男と無数の市民の中、ルイ16世に付き添ってパリの通りを[ギロチン]]の場所まで連れて行った。処刑のその時点での彼の行為については、いくつかの異なった報告がされている。ある報告は、彼は、王のスピーチの声をかき消すために、途中からドラムロールを命じたという。また別の報告は、ドラムロールを命じたのは処刑の指揮に当たっていたベルイエ(J.F Berruyer)将軍であり、サンテールはその命令を中継しただけだったとする。一方、サンテールの家族は、彼は実際にはルイが人々に話すことができるように、ドラムを静まらせたのだと主張した。
 
サンテールは[1793年]]7月にパリ国民衛兵隊の師団の長に任命された。[ヴァンデの反乱]]の勃発に際して、サンテールは反乱の鎮圧を命じられた。彼は野戦指揮官としては手柄を上げることができず、初めて指揮した[ソミュール]]の戦いでは共和派の軍は敗北を喫した。その戦いの後には、サンテール自身が戦死したという風評さえ取りざたされ、[王党派]]などは、彼の死について皮肉を利かせた碑銘を書くことまでした。サンテールはまた、自らの部下である[サン・キュロット]]の間でも人気がなかった。パリに戻った負傷兵は、サンテールが東洋的な贅沢な暮らしをしていると告げ、彼らの敗北がサンテールの反逆または無能によるものであると不平を言った。中には、サンテールの解任ばかりか、ギロチン送りさえ要求する者もいた。しかしながらサンテールは最高司令部の中にいたわけではなく、戦争の結果に対して責任のある立場にもなかった。
 
1793年10月にサンテールはパリに帰還した。サン=タントワーヌ城外区での彼の人気は衰えていなかったが、この遠征の報告(サンテールはその中でヴァンデにおける共和派の軍の窮状を訴えていた)は、彼への疑いを招くものであった。サンテールはヴァンデの戦いでの戦果の少なさから、王党派ではないかとの疑いをかけられ、[1794年]]4月に逮捕された。収監は[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の失脚まで続いた。釈放後、サンテールは軍を辞めて家業に戻ろうとしたが、その醸造所は破壊されていた。彼は[1809年]]2月6日、窮乏の中、パリで死亡した。
 
== 脚注/参考資料 ==
{{Reflist}}
* David Andress, ''The Terror: the Merciless War for Freedom in Revolutionary France'' (2005).
* Lynn Hunt, ''Politics, Culture, and Class in the French Revolution'' (1984).
* David Jordan, ''The King’s Trial: Louis XVI vs the French Revolution'' (1979).
* {{1911}}
 
{{DEFAULTSORT:さんてる あんとわぬしよせふ}}
[Category:フランス革命関連人物]]
[Category:1752年生]]
[Category:1809年没]]
 
[de:Antoine Joseph Santerre]]
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