「ジョン・ベル・フッド」の版間の差分

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フッドは[[サムター要塞の戦い]]直後に[[アメリカ陸軍]]から退役し、生まれ故郷のケンタッキー州が中立を採ったことに不満で、任地のテキサス州のために働く決心をした。騎兵大尉として南軍に加わり、[[1861年]][[9月30日]]までに第4テキサス歩兵連隊を指揮する大佐に昇進した。
 
[[1862年]][[2月20日]]には、それ以降フッドのテキサス旅団と呼ばれる旅団の指揮官となった。この部隊は南軍のポトマック軍の一部隊となり、[[3月3日]]には准将に昇進した。[[半島方面作戦]]では[[北バージニア軍]]の部隊としてテキサス旅団を率い、前線から戦闘に自ら熱心に部隊を率いて攻撃的な指揮官としての評判を築いた。[[6月27日]]の[[ゲインズミルの戦い]]では、1個旅団の突撃を率いて北軍の戦線を破って傑出した働きをし、[[七日間の戦い]]でも南軍側で最も成功した働きとなった。この戦争でフッドは怪我もなく戦場から脱出したが、旅団の他の士官は戦死するか負傷した。
 
半島でのその成功の故に、北バージニア軍[[ジェイムズ・ロングストリート]]少将の第1軍団で、1個師団を任されるようになった。北バージニア方面作戦ではその師団を率いて、北軍をほとんど崩壊寸前まで追い込んだ[[第二次ブルランの戦い]]では、ロングストリートが[[ジョン・ポープ]]軍の左翼に大量攻撃を掛けたときに、衝撃的な部隊の主要指導者となってその評判を継続した。北軍を追撃しているときに、捕獲した救急車について上官との論争に巻き込まれた。ロングストリートはこの論争の件でフッドを逮捕し、軍隊から去るように命令したが、リー将軍が干渉しフッドを留まらせた。[[メリーランド方面作戦]]の時は、[[サウス山の戦い]]の直前に、フッドはまだ事実上拘束されて後衛にいた。そのテキサス騎兵が馬で通りすがったリー将軍に向かって「フッドを出してくれ」と叫んだ。フッドはその行動に対して謝罪を拒んでいたものの、リーはフッドを指揮に戻した。しかし、この2人の将軍は最終的に仲が良くなった。