「小倉藩」の版間の差分

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同年、[[播磨国]][[明石藩]]より[[小笠原忠真]]が入封し、小倉城主として豊前北部15万石を領した。なお、支城の豊前中津城には忠真の甥[[小笠原長次|長次]]が8万石で入封し[[中津藩]]が、同じく豊後[[杵築城]]には忠真の弟[[小笠原忠知|忠知]]が4万石で入封し[[杵築藩]]が成立した。
 
忠真は[[徳川家康]]の外曾孫(母は[[松平信康|徳川信康]]の娘)であり、以後小倉[[小笠原氏]]は西国[[譜代大名]]の筆頭として九州の玄関口を押さえる'''九州探題'''の任を受け[[外様大名]]の監視を行った(これが幕末動乱における小倉城落城の遠因ともなる)。忠真の家臣[[宮本伊織]](宮本武蔵の嗣子)は、父子ともに出陣した[[島原の乱]]の軍功等により知行4000石の小倉藩筆頭[[家老]]となり、以後宮本家が代々その地位を世襲した。
2代[[小笠原忠雄|忠雄]]は[[寛文]]7年([[1667年]])藩主襲封の際、弟の[[小笠原真方|真方]]に[[小倉藩#支藩|小倉新田藩(千束藩)]]1万石を領内分藩させた。