「脱亜入欧」の版間の差分

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== 概略 ==
欧米列強が[[植民地]]戦争を繰り広げていた[[明治時代]]初期に、「[[富国強兵]]」と共に政府が実行した政策の根幹となった思想である。後の[[朝鮮半島]]や[[中国]]など、[[アジア大陸]]への侵略に至る流れの始まりと見ることもできがある。
 
具体化された例として、[[散髪脱刀令|断髪令]]や[[廃刀令]]、[[1880年代]]の[[鹿鳴館]]が知られている。
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[[福澤諭吉]]が書いたとされる論説「[[脱亜論]]」<ref>なお、同論説はあくまでも無署名文であり、近年は福澤執筆説に対して疑問が提出されている。詳細は[[脱亜論]]の項目参照。</ref>は、基本的にこの考え方に沿っていると指摘されることがあるが、これは誤りである。福澤は署名著作・[[時事新報]]論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない<ref name="fukuzawa">「「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」という成句もまた)、福沢はかつて一度も用いたことがなかった。」[[#丸山2001|丸山 2001]]、p.282</ref>。さらに福澤が「脱亜入欧」という語句と関連付けられるのは[[第二次世界大戦]]後の1950年代以降である<ref>「日本で、「脱亜入欧」という成句が、あたかも福沢自身の造句であるかのように喧伝(けんでん)され、いなそれ以上に、福沢の全思想のキー・ワードとして、学界だけでなく、一般ジャーナリズムの世界にまで流通するようになったのは、きわめて最近の現象であり、たかだか一九五〇年代以後の傾向である。」[[#丸山2001|丸山 2001]]、p.285</ref>。<!-- fukuzawa -->
 
なお、この頃までの脱亜論に正対する[[興亜論]]は、もともと[[興亜会]]を中心に展開された[[汎アジア主義]]ではあったが、後に[[日清戦争]]、[[日露戦争]]に勝利したのを機に、興亜会を吸収した[[東亜同文会]]などを中心に日本を盟主とすべきとする優位性に拠る帝国主義への信奉と強行的な侵略の正当化とを背景とするに至った点で性格を異にする。
{{要出典範囲|一方、逆説的であるが「[[興亜論]](後の時代では「[[大アジア主義]]」)の考えこそが、中国・朝鮮への進出を押し進めた」という説も有力に主張されている。|date=2012年6月}}
 
== 中国・韓国での認識 ==