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日本の氏族
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六角氏は南近江戦国大名

近江源氏の名族・佐々木氏の一族で、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。六角氏と名乗ったのは、京都の六角堂に屋敷を構えたからだと言われている。

同族である京極氏とは犬猿の仲にあり、室町時代には近江の覇権をめぐって争ったという。

戦国時代に入ると名君・六角定頼が登場して、足利将軍家の準管領となり、観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、六角氏の最盛期を創出した。しかし定頼の死後、後を継いだ六角義賢1560年野良田の戦い浅井長政と戦って大敗を喫し、その子・六角義治に至っては1563年に重臣中の重臣であった後藤賢豊を殺害して、六角家の内紛となる「観音寺騒動」を引き起こす有様であった。

このように六角氏は暗愚な六角義賢・義治父子の時代に大きく衰退し、1568年織田信長率いる上洛軍と無謀にも戦って滅亡した。その後、義賢と義治は信長に対してゲリラ的に抵抗したが、結局は没落していった。