「新川 (新潟県)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
4行目:
== 歴史 ==
[[越後平野]]を流れる[[信濃川]]は、昔から度々[[洪水]]を起こす暴れ川として恐れられてきた。またその支流である西川は、水位が周囲の土地よりも高い[[天井川]]であった。当時この一帯には多くの[[潟]]が点在したが、特に三潟と称された鎧潟・田潟・大潟の近辺は標高が低かったため、ひとたび洪水が発生すると流れ込んだ水がなかなか引くことがなく、農民を苦しめてきた。
 
このため三潟地方の農民は[[元文]]2年(1765年)、西川と交差した[[放水路]]を掘削し、悪水を日本海へ放出する計画を[[江戸幕府|幕府]]に請願したが、[[享保]]16年(1731年)にはやはり放水路として造られた松ヶ崎掘割が決壊して[[阿賀野川]]の本流になるという事故が起きており、信濃川と[[新潟港]]の水量の減少を恐れた新潟町民の猛反対に遭い、計画は却下された。
 
しかし中野小屋村の庄屋、伊藤五郎左衛門らの尽力により、新川の河口を漁港にしないという条件で[[文化 (元号)|文化]]14年(1817年)に幕府の許可を得て、翌15年(1818年)2月に着工した。
 
計画は、西川の川底に底樋(そこひ)と呼ばれる木製の筒を埋設し、[[沈埋トンネル]]を造って西川と交差させ、内野村の金蔵坂砂丘を掘り割って五十嵐浜へ放出させるという難工事であった。工事はまず、西川をコの字型に迂回させ、露出させた川底を掘って底樋を埋設し、埋め戻すという手順で行われ、[[文政]]3年(1820年)1月に完成した。
 
新川開通後は周辺の潟の多くが干上がり、17もの新田村が誕生した。
 
底樋はその後数度の改修を経て、現在は鉄製の水路橋に架け替えられている。
 
 
[[松山の糞]]が流れる[[信濃川]]は、昔から度々[[洪水]]を起こす暴れ川として恐れられてきた。またその支流である西川は、水位が周囲の土地よりも高い[[天井川]]であった。当時この一帯には多くの[[潟]]が点在したが、特に三潟と称された鎧潟・田潟・大潟の近辺は標高が低かったため、ひとたび洪水が発生すると流れ込んだ水がなかなか引くことがなく、農民を苦しめてきた。
 
このため三潟地方の農民は[[元文]]2年(1765年)、西川と交差した[[放水路]]を掘削し、悪水を日本海へ放出する計画を[[江戸幕府|幕府]]に請願したが、[[享保]]16年(1731年)にはやはり放水路として造られた松ヶ崎掘割が決壊して[[阿賀野川]]の本流になるという事故が起きており、信濃川と[[新潟港]]の水量の減少を恐れた新潟町民の猛反対に遭い、計画は却下された。