「中津鋼板」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Ryouichi W. (会話 | 投稿記録)
m 実際に交渉は八幡製鉄所に対して行っている旨参考文献に記載あり
Ryouichi W. (会話 | 投稿記録)
4行目:
[[太平洋戦争]]中、[[神戸製鋼所]]が[[陸軍航空本部]]の要請により、[[ジュラルミン]]板を製造する目的で建設した4工場の内の1つとして中津市内に中津工場を建設し、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[3月1日]]に操業を開始した。だが終戦後まもなく閉鎖となり、[[1947年]](昭和22年)以降はその工場敷地と建物、工作物を[[大蔵省]](現・[[財務省 (日本)|財務省]])、機械類を通商産業省(現・[[経済産業省]])が所有していた。
 
地元では工場閉鎖後、工場の操業再開を望む声が大きくなり、地元有志や中津市議員の努力により[[1950年]](昭和25年)に'''九州金属工業株式会社'''が敷地内の第3工場での操業を開始したが、こちらもまもなく経営不振となり再び閉鎖となってしまう。
 
そのため再度地元で企業の誘致が再燃、中津市議員が[[北九州市]]の財界を通じて[[八幡製鐵]](現・[[新日鐵住金]])[[八幡製鐵所]]に対して交渉を行った結果、八幡製鐵の協力によって[[1951年]](昭和26年)に設立されたのがこの中津鋼板である。翌[[1952年]](昭和27年)、九州金属工業同様第3工場での操業を開始(第1、第2、第4の各工場にあった機械類は第3工場へ移設された)、[[薄鋼板]]・[[中鋼板]]・[[ラス|エキスパンドメタル]]の製造・販売を行った。工場敷地は55,554[[平方メートル]]、神戸製鋼所時代に敷設された耶馬渓鉄道(後の[[大分交通耶馬渓線]])の大貞公園駅から分岐する工場への[[専用鉄道|引き込み線]]を利用して輸送を行っていた。一時は[[東南アジア]]への輸出も行っていたが、業績の低迷から[[1966年]](昭和41年)に工場を閉鎖し[[解散]]した。