「朝倉景鏡」の版間の差分

日本の戦国時代の武将
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2004年6月9日 (水) 14:30時点における版

朝倉景鏡1525年1574年)は朝倉氏の一族。

朝倉義景の父・朝倉孝景の弟にあたる朝倉景高の子であると言われている。

一族衆であったため、惰弱な主君・義景から朝倉軍の指揮権を与えられ、総大将として出陣することがたびたびあったと言われている。1564年加賀一向一揆征伐や1570年織田信長の朽木越えの折の追撃、直後の姉川の戦いの出陣などは、全て景鏡が総大将として指揮を採っているのである。

しかし、このために景鏡は義景に対して次第に愛想を尽かすようになり、1573年、織田信長の侵攻により義景が越前大野郡に逃亡してくると景鏡は義景をあっさりと見限って有無を言わせず自害させ、その首を信長に差し出して降伏したという。これにより景鏡は本領を安堵され、名を土橋景鏡と改めたのである。

しかし翌年、一向宗の反乱に遭って平泉寺にて戦死した。