「赤報隊」の版間の差分

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なお、二番隊は新政府に従い、京都へ戻り、のちの徴兵七番隊に編入され、三番隊は各地域での略奪行為が多く、桑名近辺で多くの隊士が処刑された。
 
相楽の孫である[[木村亀太郎]]は、赤報隊の関係者と共に名誉回復に奔走した。その結果、[[1928年]](昭和3年)、相楽総三に正五位、渋谷総司に従五位の[[位階]]が追贈され、全員ではないが、名誉回復は果たされた。
 
[[第二次世界大戦]]後、下諏訪では赤報隊を顕彰する相楽会が結成された。今なお、処刑場跡(張付田)に位置する「相良塚(別名=魁塚)」では、毎年[[4月3日]](命日である旧暦3月3日の1ヶ月後に合わせたものと思われる)に遺族を招いて相楽祭を行い、供養している。
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