「河合曾良」の版間の差分

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宝永6年([[1709年]])に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、翌年、[[壱岐国]]可須村風本(現[[長崎県]][[壱岐市]]勝本浦)で巡見の途上に病没した。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は[[壱岐島]]の能満寺。[[元文]]5年([[1740年]])、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。
 
[[平成]]6年([[1994年]])[[5月24日]]に旧[[勝本町]]と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で[[友好都市]]提携を結び、旧勝本町が旧[[壱岐郡]]3町と合併([[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]])後も[[壱岐市]]に受け継がれた。
 
== 著名な句 ==