「ベルリン会議 (1878年)」の版間の差分

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[[1856年]]に[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]締結による欧州各国の[[勢力均衡]]に基づいたバルカン半島の平和が、[[1875年]]の{{仮リンク|ヘルツェゴヴィナ蜂起(1875年~1878年)|en|Herzegovina Uprising (1875-1878)|label=ヘルツェゴヴィナ蜂起}}をきっかけに始まった露土戦争で、その体制が崩れて国際紛争へ発展することをロシアを除く欧州各国は危惧し、調停に動くことになった。
 
ロシアと秘密協定の{{仮リンク|ライヒシュタット協定|en|Reichstadt Agreement}}を締結していたオーストリア・ハンガリーの外相[[アンドラーシ・ジュラ|アンドラーシ]]は、調停案を提示したり、[[イスタンブル]]で国際会議を開いたりしたが、いずれも不調に終わった。1878年に露土戦争の講和条約である[[サン・ステファノ条約]]が締結され、ロシアの支援を受けた[[セルビア公国_(近代)|セルビア]]、[[モンテネグロ公国|モンテネグロ]]、[[ルーマニア公国|ルーマニア]]の三公国の独立と、ロシアの影響を強く受けた自治国である[[大ブルガリア公国]]の成立が定められ、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ライヒシュタット協定のままオーストリアの管理下におかれていた。
 
会議は、ロシアと秘密協定を締結するオーストリア・ハンガリーの要請を受け、ドイツ宰相のビスマルクが主宰し、誠実な仲介者として振る舞った。サン・ステファノ条約が現実に履行されれば、ロシアの勢力圏が大きく南に広がり[[エーゲ海]]にまで達することになるため、イギリスはこの条約に強く反対し、オーストリア・ハンガリーも表面上は反対を装った。三公国が独立を宣言し、イスタンブルの近郊にまでロシア軍が進出している現状が存在する以上、戦前の秩序であるパリ条約の体制に戻すことはもはや現実的ではないという状況を演出し、偽装された露・墺の対立にもっとも中立的な立場を取りうる列強として、双方と[[三帝同盟]]を結んでいたドイツが[[ベルリン]]において双方の利害を調整するための国際会議を開くことになった。
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ビスマルクは"誠実な仲介人"を自称し中立を宣言していたが、ベルリン条約でロシアが得た利益を認めたものの、ロシア南下政策を否定するイギリスを終始支持した。ドイツは、[[1882年]]に[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を結成してフランスを孤立化させ、[[1885年]]に日本に[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル|メッケル]]を派遣してロシアの東アジア進出を牽制し、狙い通り[[日露戦争]]でロシアの進出を阻むことに成功した。しかし、ドイツは、[[1890年]]にビスマルクが引退すると外交方針が変更され、東アジアでロシア・フランスと手を組み[[三国干渉]]([[1895年]])を行った結果[[日英同盟]]([[1902年]])が結ばれたのを皮切りに、欧州でも[[英仏協商]]([[1904年]])・[[英露協商]]([[1907年]])など対独包囲網[[三国協商]]が形成されるのを許した。
 
セルビアはサン・ステファノ条約で得た領土が維持されることを期待していたが、頼みの綱であるロシアは会議のあいだセルビアに対し冷淡な態度をとりつづけた。このため、会議後セルビアはオーストリア・ハンガリーに接近していったが、[[1890年]]にビスマルクが引退してベルリン条約の秩序が再び崩れると、セルビアとオーストリア・ハンガリーの関係は[[1908年]]の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合]]で悪化し、[[第一次世界大戦]]の導火線へと変貌した。
 
また[[テッサリア]]の帰属を巡る[[ギリシャ]]・トルコ間の国境紛争については解決が図られなかった。[[1881年]]にテッサリアと[[イピロス]]南部の一部がギリシャ領となったものの、その後も両国間の係争は続き、[[希土戦争 (1897年)|希土戦争]]につながっていく。自民族居住地域の併合を目指すバルカン諸国は、マケドニアにおける権利を主張し、その後の[[バルカン戦争]]などで領土の拡大を目指していくことになった。