「ベルリン会議 (1878年)」の版間の差分

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ビスマルクは"誠実な仲介人"を自称し中立を宣言していたが、ベルリン条約でロシアが得た利益を認めたものの、ロシア南下政策を否定するイギリスを終始支持した。ドイツは、[[1882年]]に[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]を結成してフランスを孤立化させ、[[1885年]]に日本に[[クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル|メッケル]]を派遣してロシアの東アジア進出を牽制し、狙い通り[[日露戦争]]でロシアの進出を阻むことに成功した。しかし、ドイツは、[[1890年]]にビスマルクが引退すると外交方針が変更され、東アジアでロシア・フランスと手を組み[[三国干渉]]([[1895年]])を行った結果[[日英同盟]]([[1902年]])が結ばれたのを皮切りに、欧州でも[[英仏協商]]([[1904年]])・[[英露協商]]([[1907年]])など対独包囲網[[三国協商]]が形成されるのを許した。
 
セルビアはサン・ステファノ条約で得た領土が維持されることを期待していたが、頼みの綱であるロシアは会議のあいだセルビアに対し冷淡な態度をとりつづけた。このため、会議後セルビアはオーストリア・ハンガリーに接近していったが、[[1890年]]にビスマルクが引退してベルリン条約の秩序が再び崩れると、セルビアとオーストリア・ハンガリーの関係は[[1908年]]の[[ボスニア・ヘルツェゴビナ併合]]で悪化した。さらに[[1912年]]に反オスマン同盟の[[バルカン同盟]]が結成され[[1913年]]の[[バルカン戦争]]で勝利したことによってセルビアのナショナリズムが高揚すると、セルビアとオーストリア・ハンガリーの関係は[[第一次世界大戦]]の導火線へと変貌した。
 
また[[テッサリア]]の帰属を巡る[[ギリシャ]]・トルコ間の国境紛争については解決が図られなかった。[[1881年]]にテッサリアと[[イピロス]]南部の一部がギリシャ領となったものの、その後も両国間の係争は続き、[[希土戦争 (1897年)|希土戦争]]につながっていく。自民族居住地域の併合を目指すバルカン諸国は、マケドニアにおける権利を主張し、その後の[[バルカン戦争]]などで領土の拡大を目指していくことになった。