「ジャマイカ事件」の版間の差分

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== 英本土での影響 ==
反乱とその鎮圧に関する報道が英国に到達すると、市民の支持政党の違いを反映した、エア総督の処置の是非に関する激越な議論が発生した。エアが英国に帰国したのは1866年であり、その支持者たちはエア主催の晩餐会を開催した。一方でエアの反対者は、彼を虐殺者として弾劾する抗議集会をある晩に開催した。反対者たちはジャマイカ委員会を設立し、エアをそこに召喚して反乱の鎮圧に行き過ぎがあったことを証明しようとした。この委員会には[[ジョン・ブライト]]、[[ジョン・スチュアート・ミル]]、[[ダーウィン]]、[[トーマス・ハックスリー]]、[[トーマス・ヒューズ]]、そして[[ハーバート・スペンサー]]などの英国の自由主義者たちが参加しており、一方のエア擁護委員会には、トーリー保守党員やトーリー保守的な社会主義者を含む、[[カーライル]]、[[チャールズ・キングスレー]]、[[ラスキン]]、[[ディケンズ]]、[[アルフレッド・テニスン]]などが参加した。2回にわたってエアは殺人罪で告発されたが、訴訟はついにそれ以上進行しなかった。
 
一部の歴史家は、モラント湾の反乱は単なる局所的な暴動ではなくて、それによってジャマイカ議会の特権が放棄され、ジャマイカが直轄植民地になる原因となったと考えている。