「坂広秀」の版間の差分

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しまあじ (会話 | 投稿記録)
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[[1522年]](大永2年)に毛利氏当主・[[毛利幸松丸]]の後見人であった[[毛利元就]]が、[[尼子経久]]の圧力もあって坂一族の坂広時を粛清すると、坂広秀は坂氏の[[家督]]を継いだと推測される。[[1523年]](大永3年)に幸松丸の死去によって、毛利元就の家督相続を要請する起請文に署名した15人の宿老の中にも、広秀の名が見える。
 
しかし、その翌年に坂広秀は元就の異母弟・[[相合元綱]]を担いだクーデターを起こそうとするも失敗し、元就によって誅殺された。なお、この坂広秀の謀反により、坂広秀の一族(兄?)である[[桂広澄]]も自刃している。
このクーデターには[[出雲国]][[尼子氏]]や[[石見国]]国人の[[高橋氏]]が、裏で糸を引いていたともいわれる。