「対馬府中藩」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
29行目:
対馬の行政区域は、城下の府中(厳原)のほか、豊崎、佐護、伊奈、三根、仁位、与良、佐須、豆酘の8郷に分け、郷ごとに奉役があり、その下に村が置かれ、村ごとに下知役が土着の給人家臣から任じられ、また、各村には在郷[[足軽]]より選ばれた肝煎、血判などの[[村役人]]がおかれた。農業生産の乏しい対馬では、後述する[[イノシシ]]狩りのほか[[甘薯]]栽培、[[新田開発]]などさまざまな農業政策が積極的に実施された<ref name=tbs/>。
 
[[17世紀]]後半は、日朝貿易と[[銀山]]の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、[[雨森芳洲]]や[[陶山鈍翁]](訥庵)、[[松浦霞沼]]などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多津美神社の壮麗さが今日に伝えている<ref>『ランドジャポニカ』(1996)p.747</ref>。1685年(貞享2年)には、第3代藩主[[宗義真]]が府中に「[[小学校]]」と名づけた[[学校]]を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名のつく施設の最初であるという<ref name=shinbun>[http://www.tsushimanews.com/ 対馬ポータルサイト](対馬新聞社)</ref>。[[木下順庵]]門下の雨森芳洲を対馬に招いたのも宗義真であった。
 
[[18世紀]]初めには、第5代藩主[[宗義方]]の郡奉行であった陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれた。それにより、[[1709年]](宝永6年)、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅している<ref name=cho94>長(1981)p.94</ref>。これは、5代将軍[[徳川綱吉]]によって[[生類憐れみの令]]が出されているさなかのことであり、鈍翁は死罪になることを覚悟して断行したもので、人びとからは「対馬聖人」と崇められた。