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'''トクタミシュ'''('''Toqtamish''', ? - [[1406年]])は、[[バトゥ]]家断絶後の[[ジョチ・ウルス]]の[[ハーン|ハン]]であ
== 名称 ==
[[チンギス・カン]]を遠祖とするジョチ・ウルスの王族たちのうち、チンギスの長男[[ジョチ]]の十三男トカ・テムルの子孫。[[13世紀]]の半ばに[[バトゥ]]がジョチ・ウルスを[[中央アジア]]から[[ルーシ]]([[ロシア]])に至る大国家に成長させたとき、トカ・テムルは、[[キプチャク草原]]の東部(現在の[[カザフスタン]])にあたるジョチ・ウルスの左翼に所領を分与されたバトゥの兄オルダを長とする左翼オルダ・ウルスに所属した。▼
ペルシア語・チャガタイ語資料では'''トクタミシュ・ハン '''توقتاميش خان Tūqtāmīsh Khān と表記され、[[ロシア語]]ではトフタムィシ({{lang|ru|Тохтамыш}}; Tokhtamysh)と表記される。
== 生涯 ==
▲[[チンギス・カン]]を遠祖とするジョチ・ウルスの王族たちのうち、チンギスの長男[[ジョチ]]の十三男[[トカ・テムル]]の子孫。[[13世紀]]の半ばに[[バトゥ]]がジョチ・ウルスを[[中央アジア]]から[[ルーシ]]([[ロシア]])に至る大国家に成長させたとき、トカ・テムルは、[[キプチャク草原]]の東部(現在の[[カザフスタン]])にあたるジョチ・ウルスの左翼に所領を分与されたバトゥの兄{{仮リンク|オルダ (ジョチ家)|en|Orda Khan|label=オルダ}}を長とする左翼オルダ・ウルスに所属した。
[[14世紀]]半ばにオルダの子孫が断絶した後、左翼のハンに即位したトカ・テムルの子孫のひとり[[オロス]]は、同じトカ・テムルの子孫ながら系統を異にするマンギシュラク([[カスピ海]]東岸)の長官トイ・ホージャと対立し、彼を殺害した。同時代の[[ティムール朝]]や後の[[シャイバーニー朝]]で編纂された諸資料によるとオロスはトカ・テムルの三男ウルン・テムルの長男アジキの玄孫とされ、またトイ・ホージャは同じくウルン・テムルの四男サリチャの曾孫とされる。オロスはバトゥ家とオルダ家が断絶して以来混乱の続くジョチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指した。トイ・ホージャの遺児トクタミシュは年少のため助命され、のちにオロスと対立して南の[[マーワラーアンナフル]](現在の[[ウズベキスタン]])で権力を確立したティムールのもとに逃亡した。
[[1378年]]、トクタミシュはティムールの支援を受けてキプチャク草原に還り左翼の支配者となると、ジョチ・ウルス右翼(東部)のハン、[[ティムール・メリク (ジョチ家)|ティムール・メリク]](オロスの子とも)を[[アラル海]]沿岸の[[カラタル
トクタミシュは、ジョチ・ウルスの最盛期の勢威を取り戻すため、1380年に[[クリコヴォの戦い]]でジョチ・ウルスからの独立をはかっていた[[モスクワ大公国]]を襲い
しかし、これによりトクタミシュはティムールと全面的な対立を余儀なくされ、[[1389年]]以来3度にわたる遠征を受けた([[:en:Tokhtamysh–Timur war|Tokhtamysh–Timur war]])。[[1395年]]の侵入では、[[カフカス]]から侵入したティムールに{{仮リンク|テレク河畔の戦い|en|Battle of the Terek River}}で敗れ、首都サライを破壊された。これによりトクタミシュは没落し、[[マンギト]]部の将軍[[エディゲ]]はティムール・メリクの子ティムール・クトルクをハンに擁立した。
その後、ティムールと和解して再起を図ったが、[[1405年]]にティムールが死ぬと後ろ盾を失い、翌年西[[シベリア]]で流遇していたところをエディゲによって殺害された。
== 子孫 ==
トクタミシュの子供のひとりは、{{仮リンク|ジャラール・アッディーン・ハーン・イブン・トクタミシュ|en|Jalal al-Din Khan ibn Tokhtamysh|label=ジャラール・アッディーン}}である。
[[15世紀]]にトクタミシュの子孫は勢力を回復してエディゲを敗死させるに至り、サライのハンの座をティムール・クトルクの子孫など他のトカ・テムル系の諸家と争ったが、ハン国を分立させることなく[[16世紀]]までには歴史から姿を消した。
== 関連項目 ==
*[[リプカ・タタール人]]
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