「三国志演義の成立史」の版間の差分

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===貂蝉===
[[ファイル:DiaoChan.jpg|200px|thumb|貂蝉]]
[[貂蝉]]は『演義』序盤(第8回)に登場する絶世の美女である。[[司徒]][[王允]]の養女で歌妓とされ、専横を極める[[董卓]]と腹心の[[呂布]]との間を仲違いさせるべく、2人の男を色香で翻弄して互いに反目させる「連環の計」を主導し、董卓暗殺に成功した後に呂布の妾となる。漢王朝を救うべく自らの貞節を犠牲にした貂蝉に対し、毛宗崗は絶賛して男の名臣とともに称えるべきとまで註釈している(毛本第8回総評)<ref>渡邉・仙石2010、27-28頁。</ref>。しかし正史をはじめ、あらゆる史書に貂蝉の名は見えず、彼女は架空の人物である。
 
正史(『魏書』巻7呂布伝)には呂布が董卓の「侍婢」と私通しており、内心その発覚を恐れていたとの記述があるが、その侍婢の名前は記されていない。『演義』に載る連環の計に近い話が成立するのは『平話』の段階である。ただし『平話』では姓を任、名を貂蝉とし、最初から呂布の妻という設定である<ref>渡邉・仙石2010、24-25頁。</ref>。呂布の妻でありながら夫と出会えず、王允の屋敷で世話になり、董卓の下に送り込まれる話になっている。元代の雑劇「錦雲堂暗定連環計」でも姓を任、名を貂蝉とし、忻州木耳村の生まれで、幼名は紅昌、父親の名が任昂とあり、その他『平話』と共通する部分も多い。一方、口承文芸や他の雑劇では別の系統の貂蝉の話もあったらしい。明代の戯曲集『風月錦嚢』([[スペイン]]・[[エル・エスコリアル]]所蔵)に収める「三国志大全」には、呂布が捕らえられた際、妻の貂蝉が命惜しさに関羽・張飛に媚び、呂布を罵ったため、関羽に殺されるという、悪女的な貂蝉の姿が描かれている(「関大王月夜斬貂蝉」劇)<ref>渡邉・仙石2010、26-27頁。</ref>。明代にはむしろ、こちらの貂蝉像の方がポピュラーであったらしく、[[王世貞]](1526年 - 1590年)などは詩の中で、貂蝉が関羽に殺されるのは当然の報いであると詠み込んでいる<ref>井上2004、215頁。</ref>。
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関索は[[#花関索の物語|上述]]のごとく、架空の人物であり、版本によって登場の仕方が異なる。諸本を最終的に校訂した毛宗崗本では、関羽の第三子とし、諸葛亮の南蛮征伐中に登場後ほとんど活躍のないまま、物語から消える。
 
『演義』よりやや遅れた16世紀前半に成立した『[[水滸伝]]』には「病関索」のあだ名を持つ[[楊雄]]という人物が登場する。この人物の初出は[[南宋]]時代である。南宋末の画家&#40852;聖与(1222年? - ?)は後の『水滸伝』の原型ともいうべき[[宋江]]ら36人の肖像画と賛を作成した。現在肖像画は散佚したが、賛のみ同時代の周密(1232年 - 1298年)の著わした『癸辛雑識続集』に引用されている。そこでは「賽関索 雄」の名が見られる(病や賽は本家よりやや劣るという意である。楊(yáng)と王(wáng)は平水韻では下平声七陽に属する字で発音が近い)。この記述から南宋末(13世紀半ば)時点ですでに関索の名が知れ渡っていたことが分かる。
 
同じく南宋から元代にかけて横行した盗賊の中にも、逆に盗賊を取り締まる軍人の側にも朱関索、賽関索などのあだ名が見られる。また首都臨安の繁栄を描いた『武林旧事』には、都市の盛り場での[[シュアイジャオ|角力]]でも小関索・厳関索などの[[四股名]]が見られるなど、「関索」が広く認知され、あだ名に用いられる英傑として定着していたことがうかがえる<ref>金2010、177頁。</ref>。また伝承の中で関索が活躍したと思われる[[四川省]]・[[雲南省]]・[[貴州省]]などの地域には、関索嶺<ref group="※">『大明一統志』巻88貴州布政司、[[関嶺プイ族ミャオ族自治県|永寧州]]・[[鎮寧プイ族ミャオ族自治県|鎮寧州]]の条に見える。鎮寧州の関索嶺は少なくとも[[洪武]]21年([[1388年]])以前から呼ばれていたという。小川1968、163頁。</ref>や関索廟、関索城などの地名が残っている。