「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」の版間の差分

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==背景==
[[File:Czechoslovakia01.png|thumb|300px|right|1938年当時のチェコスロバキアの区分。左から[[ボヘミア]]、[[モラビア]]・[[シレジア]]、[[スロバキア]]、[[{{仮リンク|カルパティア・ルテニア]]|en|Carpathian Ruthenia}}]]
[[File:Münchner abkommen5+.svg|thumb|right|300px|チェコスロバキアの係争地域。1はドイツ要求地域であるズデーテン。2はポーランド要求地域のテッシェン、3は[[ウィーン裁定]]でハンガリー領になる南部スロバキアと南部カルパティア・ルテニア、4は{{仮リンク|カルパティア・ルテニア|en|Carpathian Ruthenia}}、5はチェコ、6はスロバキア]]
===チェコスロバキアとドイツの領土問題===
現在のチェコの領域にあたる、[[ボヘミア]]・[[モラビア]]は[[神聖ローマ帝国]]以来のドイツ人支配地域であった。しかし[[サン=ジェルマン条約]]によってボヘミアとモラビアにはチェコスロバキア国家の成立が定められた。また、ボヘミア内のズデーテン地方にはドイツ人が多く住んでおり、自治を求める[[ズデーテン・ドイツ人党]]の政治運動が活発であった。チェコスロバキア政府はドイツ人の勢力拡張を恐れ、ドイツ人を公務員に登用しないなどの措置を執っていた。これはドイツ人にとって不公平な取扱いであり、ズデーテン・ドイツ人の反発は強まった。
 
===チェコスロバキアとハンガリーの領土問題===
1918年、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]は[[第一次世界大戦]]に敗北し、領域内からチェコスロバキアが独立した。しかし同時期に独立した[[ハンガリー民主共和国]]と[[スロバキア]]・[[{{仮リンク|カルパティア・ルテニア]]([[:|en:|Carpathian Ruthenia]])}}の領有をめぐって争いがあった。
 
スロバキアとカルパティア・ルテニアは北部ハンガリーと呼ばれ、[[ハンガリー王国の歴史的地域]]であった。一方でチェコスロバキア大統領[[トマーシュ・マサリク]]はスロバキアの連邦参加を求めていた。さらに[[ルーマニア王国]]もハンガリー領[[トランシルヴァニア]]の領有を狙っていた([[大ルーマニア]])。両国はハンガリーとの国境地帯に軍を配置し、ハンガリー政府に圧力をかけた。