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'''井上 之房'''(いのうえ ゆきふさ、[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]]) - [[寛永]]11年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]([[1634年]][[12月12日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけて[[武将]][[黒田氏]]の家臣で、[[黒田二十四騎]]、[[黒田八虎]]の一人として数えられる。[[井上之正]]の子。[[井上庸名|庸名]]、[[井上之顕|之顕]]、[[井上利房|利房]]、[[井上一利|一利]]、娘([[黒田正喜]]室)、娘([[黒田政成]]室)の父。通称は弥太郎、九郎右衛門、周防守。初名は政国。号は道柏。
 
== 生涯 ==
[[黒田職隆]]、[[黒田孝高|孝高]]、[[黒田長政|長政]]、[[黒田忠之|忠之]]の4代に仕えた重臣。[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に出陣。[[関ヶ原の戦い]]では[[石垣原の戦い]]で大友軍の[[吉弘統幸]]を討つ。長政の筑前移封の際に[[黒崎城]]を築き1万6,000石を領した。[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]が起こると[[栗山利章]]と結んで[[倉八正俊]]を排斥した。墓所は[[福岡県]][[岡垣町]]の龍昌寺。
天文23年(1554年)、井上之正の子として生まれる。
 
[[黒田職隆]]、[[黒田孝高|孝高]]、[[黒田長政|長政]]、[[黒田忠之|忠之]]の4代に仕えた重臣。[[小田原征伐]]、[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]に出陣。[[関ヶ原の戦い]]に参加。特に関ヶ原の戦い[[石垣原の戦い]]では、[[大友氏]]家臣・[[吉弘統幸]]を討つ武功を挙げた主君・長政の[[筑前国]]への移封の際に[[黒崎城]]を築き1万6,000石を領した。[[福岡藩]]の[[お家騒動]]である[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]が起こると[[栗山利章]]と結んで[[倉八正俊]]を排斥した。墓所は[[福岡県]][[岡垣町]]の龍昌寺
 
寛永11年(1634年)死去。墓所は[[福岡県]][[岡垣町]]の龍昌寺。
 
==逸話==
石垣原の戦いで討ち取った[[吉弘統幸]]は、仕えていた文禄2年([[1593年]])に大友家が氏の改易された後、従兄弟にあたる[[立花宗茂]]の下に仕官するまでの間、之房の元に身を寄せていた。統幸は[[豊臣秀吉]]から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であったが、当日の連続作戦し敵将小田九朗左衛門など30~40人を自ら討ち取って、頬や脇にるもを負って力が尽くから、敵之房の堅鎧は貫くことが出来ず、撤退して後方大石の上に、友の之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれる
 
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