「片倉景綱」の版間の差分

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m →‎逸話: 書状中で人名を略すのは当時の普通の慣習で政宗に限りません
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== 逸話 ==
{{出典の明記|date=2012年10月|section=1}}
* 政宗が人取橋合戦の際、敵兵を深追いし逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。そのとき景綱は「やあやあ殊勝なり、政宗ここに後見致す」などと騙り敵兵を一手に引き付け、政宗の窮地を救ったという。
* 政宗は幼少期に疱瘡([[天然痘]])が原因で右眼の視力を失った。しかも病後その患った眼球が眼窩から突出し、その醜い顔貌から政宗は大きな劣等感を抱き無口で暗い性格になってしまった。景綱はそんな政宗の性格を直すために政宗を侍医のいる部屋に引っ張っていき、自ら政宗の頭を抱え込み短刀で一気に眼球を抉り出したという。これ以降、政宗は暗い性格から快活で文武両道に精進する少年に変貌したという。
* 別の逸話によると、剣術指南の折りに「戦場でその右眼をつかまれたらどうする」と問うたところ、政宗は[[脇差]]を抜き右眼に刺し、景綱に抉り取るよう命じたという。
* 政宗は書状の中で固有名詞を略す癖があり(田村を「田」、相馬を「相」等)、景綱宛の書状も私的なものは宛名が「かた小」となっている。景綱が家督を息子に譲り、息子が「小十郎」を名乗るようになると政宗からの宛名は「かた備」(片倉備中守の略と思われる)になっている。ちなみに政宗自身の署名も「政」だけのものがある。
* 慶長5年(1600年)政宗は相馬領に宿をとって通過するが、その前日、政宗のお迎えとして景綱が現在の[[南相馬市]]鹿島区へ、7、8百人ほどの兵を引き連れて乗り入れ、宿を取っている。このとき景綱は盛胤付家老・加藤左近と会談し、殿をよく諌めて徳川方に付くように話している。加藤左近は承諾した。『奥相茶話記』
* 慶長5年(1600年)、[[越後上杉氏]]が[[最上氏]]領内へ侵攻した際の救援作戦にて「すぐに救援には赴かず、両軍入り乱れ、疲労が極みに達した段階で攻め入り、上杉勢を完膚なきまで叩くべし」と進言した。作戦としては合理的であるが、このとき[[山形城]]に母・[[義姫|保春院]]を置いていた政宗は流石にこの作戦を却下したという。