「ダグラス・マッカーサー」の版間の差分

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このヨーロッパ派遣軍([[:en:American Expeditionary Forces|AEF]])の総司令官は[[ジョン・パーシング]]であったが、パーシングは[[前線]]から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦[[指揮官]]の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。
 
戦後、最年少で少将となる栄進を果たし、士官学校の校長に就いた。[[1928年]](昭和3年)の[[アムステルダムオリンピック]]ではアメリカ選手団長となったが、[[アムステルダム]]で[[新聞記者]]に囲まれた彼は「我々は勝つためにやって来た」と答えた。この大会で金メダルを三段跳びで獲得した[[織田幹雄]]は終戦時にマッカーサーがアメリカの大将であった事に驚いていたと言う
 
=== 陸軍参謀総長 ===