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'''上井 兼政'''(うわい かねまさ、、[[元亀]]2年([[1571年]]) - [[慶長]]4年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]([[1599年]][[10月28日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国]]から[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[島津氏]]家臣。先祖は[[諏訪氏]]。父は[[上井秀秋]]。伯父は『[[上井覚兼日記]]』を書いた[[上井覚兼]]。子は[[諏訪兼安]]。別名は仲五。
 
==生涯==
元亀2年(1571年)、上井秀秋の次男として生まれた大剛の者で、[[島津義弘]]の家臣として[[日向国]][[小林市|小林]][[地頭]]となり、[[朝鮮文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも義弘の供をして小林衆20名を伴い渡海した。
 
慶長4年(1599年)に[[伊集院忠真]]が[[庄内の乱]]を起こすと、兼政もその鎮圧のために出陣、小松ヶ尾での戦いの際に[[平田増宗]]が野々美谷方面へ退く中、主従6人と取って帰して敵を防いだ。兼政は傷を負いながら奮戦し、忠真のである松永五左衛門が兼政の姿に臆して鉄砲を持ったまま行き過ぎる程の奮戦振りを見せであっ。しかし、志和池郷小谷頭([[都城市]]志和池)にて[[三俣院]]梶山の武士・谷口伊予に鉄砲にて討ち取られた(その後に起こった奇異は後述)
 
兼政は幼少時、飯野([[宮崎県]][[えびの市]])の[[長善寺 (えびの市)|長善寺]]で教育を受けており、死後は小林郷内で長善寺の鐘の音が聞こえる場所へ葬ってほしいと遺言していたため、飯野との境の地(現・[[小林市]]南西方平木場)へ葬られた。[[法号]]は雄岳宗英居士。その墓は'''仲五塚'''として現存する。なお、兼政の子孫は、嫡子・兼安の代から先祖の姓である「諏訪」を称した。
 
==奇異==
『庄内軍記』、『庄内陣記』によると、谷口伊予は兼政の首級を取ったが、[[北郷氏|北郷勢]]に横合いから攻められたために街道へと捨てた。だが、見慣れぬ童子がその首級を持って[[野々美谷城]]傍の[[諏訪神社]]の神前へと現れる。社人の二了(二立とも)の妻はそれを見付け、「神は穢れ戒めたまえば、構えて社殿に近付かざれ」(『庄内軍記』の記述。『庄内陣記』では「神前に左様なるもの持参申しまじき」)」と述べると、童子は何も言わずただ笑い返した。不思議に感じた妻からその話を聞いた二了が社殿に向かうと童子の姿は既になく、社壇の床下に兼政の首級があったと『庄内軍記』、『庄内陣記』には記さいわている。
 
==参考文献==