「第二次ポエニ戦争」の版間の差分

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[[画像:Hannibal.jpg|thumb|right|150px|ハンニバル]]
[[ファイル:Hannibal route of invasion-en.svg|thumb|right|250px|ハンニバルの進軍路]]
[[ファイル:Hannibal3.jpg|thumb|right|250px|[[アルプス山脈]]を越えるハンニバルの軍]]
'''第二次ポエニ戦争'''(だいにじポエニせんそう、羅:'''Secundum Bellum Punicum'''、英:'''Second Punic War''')とは、[[共和政ローマ]]と[[カルタゴ]]との間で[[紀元前219年]]から[[紀元前201年]]にかけて戦われた[[戦争]]。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民である[[フェニキア|フェニキア人]]のローマ側の呼称から[[ポエニ戦争]]と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。
 
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ローマを屈服させるにはイタリア本土を直接攻撃するしかない。しかし、[[制海権]]がローマに握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマはカルタゴの侵入が予想されるイタリア西部、南部に兵力を配置していた。ここでハンニバルは[[アルプス山脈]]を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞の発想に至る。
 
[[ファイル:Hannibal route of invasion-en.svg|thumb|right|250px|ハンニバルの進軍路]]
[[ファイル:Hannibal3.jpg|thumb|right|250px|[[アルプス山脈]]を越えるハンニバルの軍]]
 
[[紀元前218年]]5月、弟の[[ハスドルバル#ハスドルバル・バルカ|ハスドルバル]]にヒスパニアの統治を任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現[[カルタヘナ_(スペイン)|カルタヘナ]])を進発し、海岸線沿いに南フランスを進んだ。[[ローヌ川]]での戦いを経て9月、ハンニバルは約40,000名の兵士と30頭の[[戦象]]を率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際にカルタゴ軍が辿ったルートの詳細は不明であり、現在でも諸説分かれている。9月のアルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人の部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めた。イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた(なお、生存できた象の頭数には「1頭のみ生存」など諸説ある)。
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=== カルタゴ逆侵攻 ===
[[Image:GM Massinissa.png|thumb|150px|マシニッサ]]
[[ファイル:ザマの戦い1.png|thumb|right|200px|ザマの戦い]]
[[ファイル:Zama.jpg|300px|thumb|right|『ザマの戦い』(Cornelis Cort,1567)]]
ローマに帰国したスキピオは英雄として称えられた。スキピオは[[執政官]]に必要な年齢に達していなかったが、特例として[[紀元前205年]]の執政官に選出された。カルタゴとの戦争に決着をつけるため、スキピオは敵本土への直接攻撃を訴えたが、元老院はこれに難色を示した。ファビウスや[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス|大カト]]が反対派の急先鋒となり、結局元老院はこの提案を退けた。スキピオはシチリアに派遣され、その地で軍隊を徴募した。翌[[紀元前204年]]、スキピオは[[プロコンスル]](前執政官)として軍団を率い、北アフリカの[[ウティカ]]へ上陸した。
 
カルタゴ軍は[[ヌミディア]]軍と協同して迎撃に向かったが、スキピオはこれを一蹴した。余勢を駆ったスキピオはヌミディアへ侵攻し、ヌミディア王[[シュファクス]]を捕縛、自身の保護下にあったヌミディアの王子[[マシニッサ]]を王に即位させてアフリカにおける同盟国を得た。しかもそれは同時に屈強な騎兵をカルタゴから奪い取ることでもあった。カルタゴはイタリア半島のハンニバルを呼び戻して戦力を再編する一方で、ローマに休戦を打診した。ローマの元老院は申し出を了承したが、不測の事態が起きて交渉は決裂した。カルタゴはハンニバルに約50,000名の兵と80頭の[[戦象]]を率いさせて派遣し、スキピオも約40,000名の兵を率いてヌミディアからカルタゴへ兵を返した。[[紀元前202年]][[10月19日]]、両軍は[[ザマ]]の西方で対峙した。
[[ファイル:ザマの戦い1.png|thumb|right|200px|ザマの戦い]]
 
ハンニバルは最初に[[戦象]]を突撃させたが、スキピオはこれを予測して部隊を配置していたため、突撃はほとんど威力を発揮しなかった。続いてハンニバルは騎兵を偽装後退させた。ヌミディアの協力を得たローマ軍は、騎兵戦力においてカルタゴ軍に勝っており、ハンニバルはこれを戦場から引き離そうとしたのである。この策は成功し、両軍の歩兵同士の正面衝突となった。カルタゴ軍は歩兵を3列に並べ、前2列と戦って消耗したローマ軍に予備軍として最精鋭の古参兵をぶつけるという作戦だった。しかし、カルタゴ軍前2列の歩兵は戦意が低く、精強なローマ歩兵に圧倒された。やむなくハンニバルは事前の予想より早く予備軍を投入したが、これも突破はできなかった。ここでカルタゴ騎兵を駆逐したマシニッサらのローマ軍騎兵が戦場に復帰、カルタゴ軍は包囲された。歩兵のおよそ半数が降伏し、残りの半数が殺戮された([[ザマの戦い]])。
 
[[ファイル:Zama.jpg|300px|thumb|right|『ザマの戦い』(Cornelis Cort,1567)]]
 
=== 第二次ポエニ戦争終結 ===