「レオポルト3世 (アンハルト=デッサウ公)」の版間の差分

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また、[[1769年]]から[[1773年]]にかけ、建築家の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・エルトマンスドルフ]]に、ドイツ最初の[[新古典主義建築]]であるヴェルリッツ宮殿を建てさせた。[[1774年]]、レオポルト3世はエルトマンスドルフに命じ、ヴェルリッツ宮殿の敷地内に、小規模なイギリス式庭園に囲まれた邸宅を造らせ、妻ルイーゼにプレゼントしている。この邸宅は屋敷の主であるルイーゼに因み、シュロス・ルイジウム(ルイーゼの城館)と名付けられた。さらにレオポルト3世は[[オラニエンバウム (ドイツ)|オラニエンバウム]]にあったオランダ式庭園を拡張・改装し、大規模な[[イギリス式庭園]]を造営した。これは[[デッサウ・ヴェルリッツの庭園王国]]と名付けられ、[[世界遺産]]に登録されている。
 
レオポルト3世は[[1785年]]に成立した[[君侯同盟]]とは対立し、プロイセンの覇権に抵抗する姿勢を見せた。[[1806年]]には、彼の評判を聞きつけた[[ナポレオン・ボナパルト]]に[[パリ]]へ招待されている。レオポルト3世は[[1807年]][[4月18日]]に、最後になって[[ライン同盟]]に加盟した。1807年に公爵に陞爵したが、レオポルト3世は[[アンハルト公国|アンハルト]]系[[アスカーニエン家]]の家長であるにも拘わらず、公爵への陞爵は分家筋のアンハルト=ケーテン侯や[[アンハルト=ベルンブルク]]侯の方が先であった。彼は[[1806年]]に[[神聖ローマ帝国]]が消滅する寸前に皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]に莫大な金を納め、そのおかげで翌年に公爵位を得たのである。また[[1812年]]、レオポルトは10歳で公爵位を継いだアンハルト=ケーテン公[[ルートヴィヒ・アウグスト (アンハルト=ケーテン公)|ルートヴィヒ・アウグスト]]の摂政に就任している。
 
1817年、シュロス・ルイジウムで落馬事故のため亡くなった。長男の世継ぎ公子[[フリードリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ|フリードリヒ]]に先立たれていたため、公爵位は孫の[[レオポルト4世 (アンハルト公)|レオポルト4世]]が相続した。