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{{基礎情報 中国君主
|名 =武悼帝 桓玄
|代数 =
|呼称 =皇帝
|画像 =
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|王朝 =楚
|在位期間 =[[403年]] - [[404年]]
|都城 =建康
|諱 =桓玄
|字 =敬道
|諡号 =武悼皇帝
|廟号 =
|生年 =太和4年([[369年]]
|没年 =[[永始 (桓玄)|永始]]2年([[404年]])6月19日
|父 =[[桓温]]
|母 =
|皇后 =劉皇后
|陵墓 =
|年号 =[[永始 (桓玄)|永始]]:[[403年]] - [[404年]]
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== 生涯 ==
[[桓温]]の庶子として生まれたが、その才能を愛されて後継とされた。父の死後は叔父の[[桓沖]]の後見を受けた。若い頃から博学で知られ、23歳の時に太子洗馬となるが、父が東晋の簒奪を目論んだ人物だったことから罷免され、しばらく無官の時期を過ごした。その後義興(現在の[[江蘇省]][[宜興]])[[太守]]となるが「父は九州の伯と為り、兒は五湖の長と為る(父は(東晋)全土の覇者となったのに、息子の自分はただの五湖([[太湖]])の長程度か)」と嘆息して辞任した。
 
当時の東晋は、安帝を擁立した叔父の[[会稽]]王[[司馬道子]]・[[司馬元顕|元顕]]父子が政治を壟断し、朝野からの非難が高まっていた。[[隆安]]2年([[398年]]、北府軍団の長として[[鎮江|京口]]に鎮していた[[王恭]]が司馬道子打倒の兵を挙げると、当時[[広州市|広州]][[刺史]]であった桓玄は[[荊州]]刺史の[[殷仲堪]]らと共にこれに呼応した。挙兵自体は王恭の配下の武将で、実際に北府軍団を指揮していた[[劉牢之]]の裏切りにより、王恭が敗死したことから失敗に終わる。しかし桓玄自身はこれを利用して[[江州]]刺史となるなど自分の勢力拡大に成功、翌隆安3年([[399年]]には殷仲堪と[[雍州]]刺史の楊佺期を殺し荊州・雍州を制圧、かつて父が支配していた西府軍団を掌握し、長江中流域を制覇した。この頃、一時期ではあるが、田園詩人として有名な[[陶淵明]]が桓玄の幕僚を勤めている。
 
同年、司馬道子らの圧政に対して、[[五斗米道]]系の道士・[[孫恩 (東晋)|孫恩]]に率いられた民衆の反乱が起き([[孫恩の乱]])。反乱自体は劉牢之が率いる北府軍団の活躍により[[402年]]に鎮圧されたが、この混乱を好機とみた桓玄は、軍団を率いて長江を下り首都建康に迫った。一方の司馬道子父子は劉牢之に勅書を出し桓玄の討伐を命じたが、劉牢之は桓玄に寝返り、建康に入った桓玄は司馬道子父子らを殺害、総百揆・[[侍中]]・都督中外諸軍事・[[丞相]]・[[録尚書事]]・[[揚州]][[刺史|牧]]などの称号を手に入れた。この時、今まで併用されていた[[竹簡]]や[[布]]の[[公文書]]を廃して全て[[紙]]製の公文書に統一したといわれている。
 
さらに桓玄は劉牢之から北府軍団の実権を奪い、これに怒った劉牢之は桓玄を討とうとしたが、度重なる寝返りを行ったことから部下に見放され、逃亡した後自殺した。こうして東晋の実権を掌握した桓玄は、 [[元興 (東晋)|元興]]3年([[403年]]12)12月、安帝より帝位の禅譲を受ける形で皇帝に即位、国号を楚とし、[[元号]]を[[永始 (桓玄)|永始]]と定めた。
 
しかし、僅か3ヵ月後の永始2年([[404年]]2)2月、かつての劉牢之配下の武将であった劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こし、[[徐羨之]]・[[諸葛長民]]・[[檀道済]]・[[劉毅]]らも劉裕に呼応、敗れた桓玄は建康を脱出して西へ逃れた所を[[益州]][[都護]]の[[馮遷]]に殺された。桓玄を討った劉裕は、安帝を復位させ全権を掌握し、その後は北伐と反対派の粛清によって自らの権威を着実に固めた後、[[元熙 (東晋)|元熙]]2年([[420年]][[恭帝 (東晋)|恭帝]]からの禅譲によって皇帝に即位し、宋を建国した。
 
== 関連項目 ==
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* [[爨宝子碑]]
* [[九錫]]
* [[中国の書家一覧]]
 
{{DEFAULTSORT:かん けん}}
[[Category:南朝の皇帝]]
[[Category:魏晋南北朝時代の人物]]
[[Category:中国の僭主]]
* [[Category:中国の書家一覧]]
[[Category:魏晋南北朝時代の人物]]
[[Category:369年生]]
[[Category:404年没]]