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[[1901年]](明治34年)[[11月4日]]、[[梨本宮守正王]]と[[梨本伊都子|伊都子]]妃の第一女子として生まれる。
 
皇太子裕仁親王(後の[[昭和天皇]])のお妃候補のひとり<ref>候補者には他に、従姉妹の[[香淳皇后|良子女王]]([[久邇宮]]家)らがいた</ref>として名前が取り沙汰されるが、[[学習院]]女子中等科在学中に[[李王家|李王]]世子である李垠と婚約した。彼女が自らの婚約を知ったのは、[[避暑]]のため梨本宮家[[大磯]]別邸に滞在していた[[1916年]](大正5年)8月3日の早朝、手元にあった新聞を何気なく開いた際で、大変ショックを受けたという<ref name="yomi19840629">1984年6月29日 [[読売新聞]]「[人]李方子=2 わずか15歳 “政略結婚”に涙」</ref>。二人の結婚は、[[日韓併合]]後のいわゆる「[[内鮮一体]]」を目的とする政略結婚であり、[[山縣有朋]]による策略説もある<ref name="yomi19840629"/>。
 
この結婚については表向きは「天皇陛下の御沙汰」によるものとされているものの、梨本宮家は適齢期になった方子の結婚相手を探していたが、なかなかまとまらなかったため、実は梨本宮家から朝鮮総督に縁組を申し込んだものであった<ref>『梨本宮伊都子の日記』「ごく内々にて申しこみ、内実は申しこみとりきめたるなれども、都合上表面は陛下思召により、御沙汰にて李垠殿下へ遣す(つかわす)様にとの事になり、有難く御受けして置く。しかし発表は時期を待つべしとの事」([[#小田部 2008|小田部 2008]] {{要ページ番号|date=2012-11-01}})</ref>。
 
[[1918年]](大正7年)に[[納采の儀]]が行なわれた。女子学習院卒業後、[[1919年]](大正8年)1月25日に婚儀の予定だったが、直前に李太王([[高宗 (朝鮮王)|高宗]])が脳溢血のため死去。これには日本側の陰謀による毒殺説が存在し、[[三・一独立運動]]の引き金ともなった<ref name="yomi19840630">1984年6月30日 読売新聞「[人]李方子=3 父王は“毒殺”愛児も同じ運命に 雷鳴の夕に絶命」</ref>。このため婚儀は延期された。
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== 身位 ==
* 方子女王(1901年 - 1920年)
* 李王世子妃 方子女王(1920年 - 1926年)
* 李王妃 方子女王(1926年 - 1947年)
* 李方子(1947年 - 1989年)
 
[[女王 (皇族)|女王]]の地位は皇族との結婚の場合、保持される([[親王妃]]等を参照されたし)。[[王公族]]は皇族に準ずる扱いであった。
 
== 著書 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = [[小田部雄次]] |year = 2008 |title = 梨本宮伊都子妃の日記―皇族妃の見た明治・大正・昭和 |series = [[小学館文庫]] |publisher = [[小学館]] |isbn = 978-4094083255 |ref = 小田部 2008 }}
 
== 関連項目 ==